波から生じる二つの作用
― 観測するということの原理的問題 ―

宮原 崇




この論文はこちらの論文の続きです。



現在の物理では、光は波であると同時に粒子であり、光は波と粒子の両方の性質を持っていると説明されます。
しかし、私は、光は本質的に波であると考えます。
それだけではありません。私は、現代の物理が粒子として説明するあらゆるものが波であると考えます。



このことはどのように説明されるでしょうか。

次のような場面を想像してください。
いま、私の目の前には、長さ30センチメートル揺れ幅10センチメートルのひも状の波があって、波打ちながら空中を進んでいます。
私はその進行方向に立ち、スプーンを持って立ちふさがります。
波の幅は10センチメートルですが、スプーンの幅は2センチメートルです。波はスプーンにぶつかるでしょうか。ぶつかるかもしれませんし、ぶつからないかもしれません。もしぶつかるなら、スプーンを持つ私の手には振動が伝わり、私は波がスプーンにぶつかったことを知ります。
では、私が持っているのが卓球のラケットだったらどうでしょうか。ラケットの幅は10センチ以上ありますから、波はラケットをすり抜けることができません。波は必ずラケットにぶつかり、私はそのことに気づきます。

これが、私たちが“見る”また“観測する”ということの一般的な原理です。波は、観測されるときには粒子として観測されるのです。



このことは、いま人々が考えるところの“観測する”という行為に原理的な問題があることを示唆しています。

例えば、光の振る舞いを調べている人たちはこのように言います。1個の光子は分割が可能ですがこれがどうしてなのか解りません。しかし、光が本質的に波であり粒子として観測されると考えるなら、問題は解決されます。光の粒子1個の定義は、光の波が粒子として観測される場合の最小単位に過ぎないのです。それは、先のたとえで言うなら、ラケットの性能というものです。
また、量子の振る舞いを調べている人たちはこのように言います。量子の位置と速度は観測するまで確認することができないので量子は観測されるまでは雲のようになって散らばっていると考えるしかありません。しかしこれも、量子が本質的に波であり粒子として観測されると考えるなら、不思議ではありません。
ごく最近になって、物理学者たちは粒子加速器を用いてヒッグス粒子を発見しました。しかし、観測という方法でヒッグス粒子を発見した以上、彼らは多様なヒッグス粒子を発見し続けることになるでしょう。学者たちはヒッグス粒子をヒッグスα粒子、β粒子、γ粒子という具合に細かく分類し始め、やがてアルファベットが足りなくなったからと言って数字を用いるようになるでしょう。
さらに、宇宙を調べる人たちは、ダークマターの質量は確かに存在しているのにダークマターを観測することはできないと言って嘆いています。



私の意見では、波には二つの作用があります。波が波のまま振る舞う作用と、粒子として振る舞う作用です。
現在の物理学では、波が波として振る舞う作用を『力』と考え、粒子として振る舞う作用を『物質』と考えます。この考え方には改革が必要ではないでしょうか。



履歴
2015年08月13日 公開
2024年03月13日 おまけを掲載