新世界訳
エホバの証人の聖書

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マタイ 5:3

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
自分の霊的な必要を自覚している人たちは幸いです。天の王国はその人たちのものだからです。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
心の貧しい人々は、幸いである、 天の国はその人たちのものである。



 新共同訳聖書の訳文は一般的ですが、新世界訳聖書は「自分の霊的な必要を自覚している人たち」という特殊な訳文を採用しています。

 ここのところ、ギリシャ語の本文を見ると、「霊の貧しい人」という表現が用いられています。新世界訳聖書は、この「貧しい」という表現の原義に注目しています。



◇ 新世界訳参照資料付き聖書, マタイ 5:3, 脚注

または,「霊を乞い求める人たち」。



 この聖句については、「聖書翻訳研究」第7号に掲載された、フランシスコ会聖書研究所堀田雄康氏による論文が詳しい説明を載せています。
 彼は「貧しい」という語についてこのように解説しています。



◇ 「「心の貧しい人」(マタ 5:3 “οἱ πτωχοὶ τῷ πνεύματι”)は、幸いであるか―邦訳聖書の一盲点」, 堀田雄康, 「聖書翻訳研究」第7号 (表記修正)

 “πτωχός”ということばは、……「ものを欠いている」状態、「物乞いをしている」境遇を意味する。すなわち、同類語の“πένης”が「骨を折って労苦せざるをえない」状態、また、「手持ちのものが不足している」有様を示すのに対し、“πτωχός”は、必要なものさえも欠き、他人の助けなしにはどうすることもできない、まったく哀れな様子を表わすのである。つまり、“πένης”が、財のたくわえがないゆえに、労苦して口を糊せねばならない者を意味するとすれば、“πτωχός”は、物乞いによって他人の慈悲を得なければならないほどに、まったく無一物である者を意味している。



 この論文はさらに、「霊」という語にも焦点を充てています。



◇ 「「心の貧しい人」(マタ 5:3 “οἱ πτωχοὶ τῷ πνεύματι”)は、幸いであるか―邦訳聖書の一盲点」, 堀田雄康, 「聖書翻訳研究」第7号 (表記修正)

 “οἱ πτωχοὶ”を限定する“τῷ πνεύματι”は、道具の与格ではなくて、関係の与格であり、そして、人間の「霊」または「精神」を意味するものである。なぜなら、「聖霊(または神の霊)において貧しい人」が幸いでありうるはずのものでないことは、聖書の示す他の教えに照らしてみて当然であるからである。……換言すれば、“τῷ πνεύματι”という限定は、“οἱ πτωχοὶ”が、ある精神態度、つまり、自己の霊的貧困を意識し、神によりすがることなしには生きては行けぬという信念を有する者であることを表わしている。



 つまり、ここで言う「霊」とは、「神の霊」ではなく「自分の霊」であるということです。

 堀田氏は、この「心の貧しい人」という表現が、クリスチャンにもそうでない人にもどれほど誤解を与えるものであるかを指摘しています。



◇ 「「心の貧しい人」(マタ 5:3 “οἱ πτωχοὶ τῷ πνεύματι”)は、幸いであるか―邦訳聖書の一盲点」, 堀田雄康, 「聖書翻訳研究」第7号 (表記修正)

 試みに、近くにいる二、三のキリスト者に、この句の意味を尋ねてみるがよい。ある人は、「『心の貧しい人』とは、けんそんな者に他ならない」、と即座に断言するであろう。また、ある人は、「物質的にも貧しく、精神的にも金銭の富に執着しない者」、あるいは、「現に実際所有している金銭、また将来手に入れうる金銭におぼれない者」であると主張するかも知れない。さらに、ある人は、「自分の貧しい状態をつぶやかず、満足する者」などと答えるであろう。

 キリスト者でない人々、また、ことに聖書の中のことばであるなどと知らない人たちから、この句はいったいどのように受けとられるであろうか。つまり、聖書から切り離して、一つの日本語の表現として単純に考えた場合、いったいどんな意味で理解されるかということである。このように考えてみるとき、「心の貧しい人」という表現が……果して適切であろうかと疑わざるを得ない。……「心の貧しい人」という表現が、いかに日本人の心情と相入れないかを知るには、反対表現である「心の豊かな人」と比較してみるだけで十分である。



◇ バルバロ訳聖書, マタイ 5:3, 脚注

物質的にも貧しく、精神的にも金銭の富に執着しない者。



 彼はこの問題の「決定的な例」として、志賀直哉の「暗夜行路」の一節を引用しています。



◇ 「暗夜行路」, 志賀直哉, (「聖書翻訳研究」第7号より引用)

 『心の貧しき者は福(さいわい)なり』。貧しきという意味が今の自分のような気持ちをいうならあまりにも惨酷な言葉だと彼は思った。今の心の状態が自身これでいいのだ、これが福になるのだとは、どうして思えようと彼は考えた。もし今一人の牧師が自分の前へ来て『心の貧しき者は福なり』といったら自分はいきなりその頬を撲りつけるだろうと考えた。心の貧しいことほど、惨めな状態があろうかと思った。



◇ 「「心の貧しい人」(マタ 5:3 “οἱ πτωχοὶ τῷ πνεύματι”)は、幸いであるか―邦訳聖書の一盲点」, 堀田雄康, 「聖書翻訳研究」第7号

 まことのしあわせについてのキリストの教えを説いて、頬をなぐりつけられてはたまったものではないが、それが「心の貧しき者は福なり」と口にしたばかりのことであると知れば、なぐりつけられた者は泣くに泣けない思いを抱かざるをえないであろう。



 では、この聖句は神学的にどのような意味合いを持っているでしょうか。



◇ 「ものみの塔」誌1984年8月15日号, ものみの塔聖書冊子協会

 独りよがりで自らを正しいとする人は,普通の場合霊的な必要を少しも自覚せず,もはや真理に対して心を開きません。



◇ 「新約聖書の語彙研究」, (「聖書に対する洞察」より引用)

 神の王国に入るにはそのような状態を意識することが先行するのであり,そのような状態からの解放は,自分自身の努力ではなく,神の無償の憐れみによってのみ可能になる。



◇ 「目ざめよ!」誌1994年12月8日号, ものみの塔聖書冊子協会

 しかし,自分の霊的な必要を自覚しているとは,そういう必要があるということをただ意識する以上のことを意味します。……自分が霊的に何を必要としているかを見分け,そしてその必要を満たす手段を講じるときに幸福は花開きます。



◇ 「ものみの塔」誌2005年7月1日号, ものみの塔聖書冊子協会

 霊的な必要は,霊的な真理によって満たさなければなりません。この真理とは,神に関する事実,神の規準,人類に関する神の目的などのことです。では,霊的な真理はどこに見いだせるでしょうか。聖書の中に見いだせます。



◇ 「ものみの塔」誌2004年11月1日号, ものみの塔聖書冊子協会

 謙遜なクリスチャンで,自分の罪ある状態を十分に意識している人は,キリストの贖いの犠牲に基づいてエホバに許しを請い求めます。(ヨハネ第一 1:9)



 心の正しい人は、救われるための最初のステップとして、自分の霊的な貧しさを自覚するようになります。続いて、その貧しさを満たすために聖書の真理を求めるようになります。その人は聖書から学んだ結果、救われるにはキリストの贖いに頼るよりほかないことを謙遜に認め、イエス・キリストに信仰を働かせるようになります。こうして人は救われる、ということをこの聖句は述べているようです。

 さて、堀田雄康氏による論文は共同訳聖書のたたき台として用意されたものです。共同訳聖書は、この論文の内容を受け、このような訳文を採用しました。



マタイ 5:3

◇ 共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
ただ神により頼む人々は、幸いだ。天の国はその人たちのものだから。



 ところが、共同訳聖書のこの訳文は諸教会にとってうれしいものではなかったようです。諸教会からの強い反発を受けた共同訳聖書の翻訳者は、改訂版の新共同訳聖書で訳文を従来のものに戻してしまいました。
 日本において、この聖句は人々が誤読するままに放置されてきました。ですから、今になって原文の正しい意味合いを反映した訳文を採用したりすると、これまでこの聖句を誤読してきたほとんどの人が拒絶反応を示すという事態が生じるということのようです。

 海外においても状況は似たり寄ったりのようです。「ものみの塔」誌1985年6月15日号はこのように指摘しています。



◇ 「ものみの塔」誌1985年6月15日号, ものみの塔聖書冊子協会 (表記修正)

 幾つかの聖書注釈書は,新世界訳聖書の訳こそ「霊において貧しい」という表現の意味であることを認めています。では,なぜカトリックのエルサレム聖書や新国際訳など多くの現代訳聖書は,「霊において貧しい」という表現を用いることに固執するのでしょうか。






 このような事情がありますから、今もこの句については様々な解釈が唱えられていて、混乱が続いています。

 イエスは時折、シンプルな表現を用いて深遠な事柄を語りました。このような場合は普通、もともとは複雑な考えというものがあってそれが語られる際に単純化されたに違いないと考えるべきですが、世の中にはそういうふうには考えないという人たちがたくさんいたりします。それらの人たちは、イエスはシンプルな表現を用いたのだからその意味もシンプルでなければならないと考え、できる限りその意味を単純にしようとします。
 イエスは社会的弱者のことをいつも思いやっていました。この句について考えるにあたってそのことに注目する人たちもいます。彼らは、イエスは病気や貧困にあえぐ可哀そうな人たちに慰めの言葉を差し伸べていたのだ、と考えます。
 また、人生につきものの悲哀ということを考える人もいます。それらの人たちは、日常生活において残念なことがあったり、さらには人生に躓いたりしても、そのことを不幸に思うことはないのですよ、ということを述べます。
 「貧しい」ということを金銭的にとらえて、お金に対する執着を捨てなければ人は救われない、といった教えを説く人たちもいます。

 もしあなたがそのような解釈の一つに出会うことがあったら、どう考えたらよいでしょうか。このような時に助けになるのは、イエスが語った言葉の文脈を参照することです。(*この記述は2017年3月(ごろ)に公表されました。)



マタイ 5:3-12

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
[A] 「自分の霊的な必要を自覚している人たちは幸いです。天の王国はその人たちのものだからです。
[B] 「嘆き悲しむ人たちは幸いです。その人たちは慰められるからです。
[C] 「温和な気質の人たちは幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。
[D] 「義に飢え渇いている人たちは幸いです。その人たちは満たされるからです。
[E] 「憐れみ深い人たちは幸いです。その人たちは憐れみを受けるからです。
[F] 「心の純粋な人たちは幸いです。その人たちは神を見るからです。
[G] 「平和を求める人たちは幸いです。その人たちは『神の子』と呼ばれるからです。
[H] 「義のために迫害されてきた人たちは幸いです。天の王国はその人たちのものだからです。「人々がわたしのためにあなた方を非難し,迫害し,あらゆる邪悪なことを偽ってあなた方に言うとき,あなた方は幸いです。歓び,かつ喜び躍りなさい。天においてあなた方の報いは大きいからです。人々はあなた方より前の預言者たちをそのようにして迫害したのです。



 文脈を参照すると、イエスは、人間形成やそこから生じる振る舞い、さらには生き方というものがその人を救うのだということを述べようとしていることが分かります。[B]の表現は全体に対して例外的であるようにも見えますが、恐らく[A]の「自分の霊的な……」の繰り返しを避けているのでしょう。

 ですから、もしある釈義が唱えられていて、それが文脈に調和しないものであるなら、その解釈は間違った解釈であると考えてよいでしょう。



○ 課題

 [B]の表現について、深く掘り下げて考えてみましょう。この表現は、人格形成や生き方について語っているようにも、そうではないようにも見えます。もしこの表現も人格形成と生き方について語っているのだとしたら、それはどのような意味でしょうか。そのことを知るために、エゼキエル 9:4, ヨナ 3:1-10, コリント第二 7:8-13, ヤコブ 4:8-10, 啓示(黙示録) 2:5, 3:3を読み、説明してください。






 さて、上のようなことを述べましたので、ひとこと書き加えておきたいと思います。

 いまのところ聖書学者たちの間では、「イエスのこの表現は、もともとは“貧しい人は幸い”というものであったが、マタイが勝手に自分の解釈で“霊の”を書き足してしまったのだ」という見解が支配的です。そのため、これを事実のように述べる解説書が多数あります。なぜマタイがそんな勝手なことをやったのかを詳しく説明している解説書もあったりします。



◇ 「新共同訳新約聖書注解」, 日本基督教団出版局 (表記等修正)

 ルカの文には《心の》がなく、単純に《貧しい人々》であって、これが伝承のより古い形であろう。マタイはこれに《心の》を付加したわけである。
 ……マタイが《心の》を付加したことによって、もとの《貧しい人》が含意していたニュアンスは損なわれた。



ルカ 6:20

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである、 神の国はあなたがたのものである。

マタイ 5:3

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
心の貧しい人々は、幸いである、 天の国はその人たちのものである。



 私は、学者たちのこういう感覚はおかしいと思います。
 イエスはもともと長い言葉を述べていて、それがどんどん短くなり、こうして最後にルカの表現になったのであって、よって、マタイの表現はその中間だと思います。
 人間というものの性質上、極限まで簡略化された表現が思考の始点であるということはあり得ないことです。学者たちはイエスのことを何だと思っているのでしょうか。
 それに、イエスは、様々な人たちに対して日々同じ言葉を繰り返し述べるうちに、言い換えたり説明を加えたりもしたでしょうから、弟子たちはその言葉の意味をかなり詳しく知っていたでしょう。マタイはイエスの言葉の意味を正確に記述したと思います。

 上記についてもう一言念押ししたいと思います。(*この記述は2020年11月に公表されました。)
 私は、マタイ 5章に記されているイエスの訓話は、実質的には寄せ集めだと思います。イエスはいろいろなところで同じ教えを繰り返し語ったが、その中でも特に印象的だったのがこの出来事だったので福音書に記された、くらいに思っています。当然、この出来事はイエスの思想の起点になり得ません。






 さらに追記です。

 この記述を読まれる方の中には、反論してこのようなことを言われる方がいます。イエスはヘブライ語で教えを説き、福音書はギリシャ語でそれを記した。よって、イエスがこの言葉によって何を言おうとしたかをギリシャ語単語の考察によって得ようとするのは全くの見当違いだ。

 イエスの時代、ユダヤ人の大半はギリシャ語を話していました。しかし、一部の都市ではヘブライ語が使われていたとも言われています。ここで言うヘブライ語とは、当時のヘブライ語のことで、実質的にはアラム語です。そこで昔から、果たしてイエスはギリシャ語を母語とするユダヤ人であったかそれともヘブライ語を母語とするユダヤ人であったかということが議論されてきました。
 人気があるのはヘブライ語説です。しかし、これを証明するものはありません。聖書の中にはヘブライ語説を証明する記述がいくつもあるように思えますが、慎重に考察を重ねると、どれも証明にはならないことが判明します。そのようなわけでいまだに結論は出ていませんが、今述べたようにヘブライ語説には人気があり、しかも一見して証明となるように思える記述が聖書の中に複数あるわけですから、イエスはヘブライ語を話したのだと断言される方は大勢おられます。この反論はそのような方たちからの反論です。

 また、この説を断言しない学者たちといった方からも、一応この説は含めて考えておくべきだよ、という進言があったりします。私がこの文書で公表したことは、はっきりと証明されたことではないんだよ、と彼らは言います。

 しかし、これについても私は、学者たちの感覚はおかしいと思うのです。気にすべきところは、イエスではなく聴衆の言語ではないでしょうか。
 この問題についての私の見解はこうです。(*この記述は2020年11月に公表されました。)

 イエスは、神の子として、また聖書によって予告されたメシアとして、世に自分を示したのですから、少なくとも3つの言語ができたはずです。ある場合には、ギリシャ語を話すユダヤ人と会って教えを説いたでしょう。別の場合にはヘブライ語を話すユダヤ人に教えを説いたでしょう。ごくまれに、自分は聖書のヘブライ語ができるんだという人が現れてイエスに論戦を挑んだでしょう。これをうまくこなせなければ、イエスのことを神の子またメシアと認める人はいなかったでしょう。
 というわけで、マタイ 5章の記述の場合、結論ははっきりしています。イエスが教えを説く直前の記述がこうなっているからです。



マタイ 4:23-5:2

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
それから[イエス]はガリラヤの全土をあまねく巡り,諸会堂で教え,王国の良いたよりを宣べ伝え,民の中のあらゆる疾患とあらゆる病を治された。すると,彼の評判はシリアじゅうに伝わり,人々は,具合いの悪い者すべて,さまざまな疾患や苦痛に悩む者,悪霊に取りつかれたり,てんかんであったり,まひしたりしている者を彼のところに連れて来た。それで[イエス]はその人々を治された。その結果,大群衆が,ガリラヤ,デカポリス,エルサレム,ユダヤから,またヨルダンの向こう側から[来て],彼のあとに従った。その群衆をご覧になった時,[イエス]は山に上られた。そして腰を下ろされると,弟子たちがそのもとに来た。それから[イエス]は口を開いて彼らを教えはじめ,こう言われた。



 イエスは同じ教えをいろいろなところで繰り返し説いたに違いありませんが、福音書が特にこの出来事を取り上げているのは、聴衆の規模が大きかったからです。イエスはまずガリラヤ地方の諸都市を巡って奇跡を行い、非常に大勢のユダヤ人の関心を集め、彼らを山上へ誘導しました。
 そうすると、どうでしょうか。この状況では、イエスとしてはギリシャ語を話すしか選択肢がありません。群衆の大半はギリシャ語を話すユダヤ人だからです。ギリシャ語を話すユダヤ人の大半はヘブライ語が解りませんが、ヘブライ語を話すユダヤ人はギリシャ語が解ります。これはもうギリシャ語で教えるしかありません。
 ほかの場所で同じ教えを使いまわした際も、だいたい状況は同じだったでしょう。

 というわけで、イエスはヘブライ語を母語とするユダヤ人だったという仮定は、そもそも取り上げる必要などありません。それは別にどちらでもよいのです。






 新世界訳聖書の改訂版では、聖書になじみのない読者に配慮し、厳密な訳よりも解りやすい訳が採用されています。
 日本には「霊的必要」という言葉の意味が解る人などほとんどいないということです。



マタイ 5:3

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
神の導きが必要であることを自覚している人たちは幸福です。天の王国はその人たちのものだからです。