新世界訳
エホバの証人の聖書

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ヨハネ 14:9

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
イエスは彼に言われた,「わたしはこれほど長い間あなた方と過ごしてきたのに,フィリポ,あなたはまだわたしを知らないのですか。わたしを見た者は,父を[も]見たのです。どうしてあなたは,『わたしたちに父を示してください』と言うのですか。

◇ 新改訳聖書 [第三版] ◇ (ファンダメンタル)
イエスは彼に言われた。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。



 エホバの証人統一協会対策香川ネットという反対組織の主宰者である自称宗教研究家正木弥氏が製作した「ものみの塔の新世界訳聖書は改ざん聖書」という文書は、ここの訳文の違いについてこのように述べています。



◇ 「ものみの塔の新世界訳聖書は改ざん聖書」, 正木弥 (表記修正)

 新世界訳(英文)には[also]をつけ足しています。[ ]書きにしようと、つけ足しの事実は変わりません。ギリシャ語本文にも逐語訳にもそれらしきものがありません。にもかかわらず、一方的に独断でつけ加えたのです。これを引き継いだ新世界訳(日本語文)でのつけ足しは[も]というたった一文字ですが、この1字によって父とわたしが別者であるように表現してしまったのです。「わたしと父は一つです」(ヨハネ10:30)とあるのに、「わたしを見た者は、父を[も]見たのです」となると、わたしと父とは二つになってしまうのです。これはだましでなくて何でしょうか。まことに悪質、重大な改ざんです。



 正木氏は三位一体の論理を固く信じているようです。

 三位一体の論理によると、神とイエスは一つです。



○ 三位一体の定義

父なる神がおられ、子なる神がおられ、聖霊なる神がおられる。
しかし、三人の神がおられるのではなく、ただおひとりの神がおられるのである。



 さらに正木氏は、ここで訳文に“も”の挿入を行うと、神とイエスとが別個の存在であるという意味になってしまうと考えているようです。
 もっともこれは認知の問題です。もし仮に神とイエスが同一の存在であり、イエスがそれを述べているのなら、意図は明白ですから、どちらの言い回しをしても意味は同じになるはずです。その逆も同じでしょう。
 もちろん、イエスがこの言葉を述べた時、神は神の姿で天におり、イエスは人の姿で地にいました。つまり、両者は一体でも混合でもなく別個です。このことを正しく認識していれば、イエスの言葉の意味は“も”の有無によって変わりません。



○ チーズかまぼこ

 食べ物の中には、二種類の食べ物が混ざっているというものが多数あります。チーズかまぼこの場合、「かまぼこを食べる人はチーズを食べているのです」と言うことができますし、「かまぼこを食べる人はチーズも食べているのです」と言うこともできます。この場合、かまぼことチーズは一体であると考えても、別個であると考えても問題は生じません。



○ 認知の問題

 人は言葉を述べる時、認知に伴って言葉を述べます。その結果、認知が明らかでないと文意も明らかでない表現が産み出されることになります。たとえば、「女の子が好きな男の子」という表現は二通りに読むことができます。認知が明白な場合は文意も明白ですが、認知が不明な場合は文意も不明です。



 この問題は、直前のヨハネ 14:7に注目することにより解決されるようです。



ヨハネ 14:7

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
あなた方がわたしを知っていたなら,わたしの父を知っていたでしょう。今この時から,あなた方は[父]を知っており,また見たのです」。

◇ 新改訳聖書 [第三版] ◇ (ファンダメンタル)
あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父を知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」



 ここではイエス自身が“も”を用いて話しています。イエス自身としては、“も”という語が入っていると文の意味が変わってしまうのでよくない、などということは考えていなかったようです。
 ヨハネ 14:9で再度“も”が用いられなかったのは、単にそれが省略されたからのようです。新世界訳聖書は省略されていることが明らかな語を訳文において補っています。

 このあたりの訳し方の問題についてはヨハネ 12:44-45のところで詳細に扱っていますので、そちらを参照してください。






 職業的反対者の岩村義男氏も、「神のみ名は「エホバ」か」の本の中でこの聖句の問題を指摘しています。



◇ 「神のみ名は「エホバ」か」, 岩村義男, いのちのことば社

 「わたしを見た者は、父を[も]見たのです」と『新世界訳』は[も]を挿入しています。しかし、『王国行間逐語訳』のギリシャ語本文には、[も]に相当するギリシャ語はありません。つまり、イエスを見た者は父を見たという内容なのです。
……『新世界訳』は、ヨハネ 14章9節も、ギリシャ語本文にないことばを付け加えています。「わたしを見た者は、父を[も]見たのです」の [も] です。自分たちの教理に、読者をマインド・コントロールするために、みことばを改ざんしていませんか。






◆ 岩村義男氏の手記

 岩村義男氏による「神のみ名は「エホバ」か」の本については、載せられている新世界訳の改竄疑惑を順番に取り上げてきましたが、これが最後になりましたので、この本に載っている彼の手記に触れ、この本を総括したいと思います。

 彼はこの本の中で、「13年の奴隷状態を振り返って」という題をつけて自身の経験を振り返っています。この内容から、彼独特の考え方や行動の仕方を見て取ることができます。

 まず彼は、自分がエホバの証人になったいきさつを語ります。



◇ 「神のみ名は「エホバ」か」, 岩村義男, いのちのことば社

 私は4か月で忠実なエホバの証人の兵士に仕立てあげられた。……まず、聖書から教理の裏づけを繰り返し覚えさせられる。反復がなされていくうちに、組織は常に聖書から導くものだと信じ込んでしまう。……思考回路も、組織の導きなしには聖書を理解することができないロボットのようになっている。つまりいつしか、聖書より組織の指示を重要視するようになるのである。



 棄教した人にありがちな認識のもとに過去を振り返っている様子が見て取れます。
 彼の意見では、エホバの証人はマインドコントロールにありがちな反復法によって信徒を洗脳教育しているようです。このあたりは事実と異なるように感じますが、見方の相違と思えなくもありません。

 エホバの証人になってからの活動について、彼はこのように告白します。



◇ 「神のみ名は「エホバ」か」, 岩村義男, いのちのことば社 (表記修正)

 特別に三つの目標を掲げて心血を注いだ。まず反対者のご主人たちを説得し、組織に勧誘すること。次にキリスト教会をターゲットに伝道すること。三つめに若者たちを活発な証人に仕上げることであった。特に家から家(の伝道)で「クリスチャンですから結構です」と名のる方々には執拗に訪問し、改宗させた。近隣の教会の牧師たちからは言語同断、恥知らずのまむしのように嫌われ、居留守で断られるようにもなった。



 私これを読んで驚きました。これは恥知らずな態度というものではないでしょうか。見ての通り、岩村氏本人も自分はそう思われたと書いています。そう思われたと気づいただけで自覚はしなかったのでしょうか。
 全国にはたくさんのエホバの証人がいて、その周囲には必ず他教派の教会とその信徒さんがいます。私の知る限り、彼らに目をつけて執拗に訪問するなどということは誰もやっていません。もしそんな人がいたら少なからず問題になるはずです。このサイトには諸教会の牧師さんや信徒さんも訪れていると思いますが、こんな失礼な話には心当たりがないはずです。エホバの証人の方針は、他教派の信徒さんとは通常の戸別訪問において出会えばよい、それで雑誌配布などを行って、相手が応じるなら話し合えばよい、というものです。

 ところが、このあとのところに、エホバの証人社会にとって非常に問題であり、また反省すべき記述があります。



◇ 「神のみ名は「エホバ」か」, 岩村義男, いのちのことば社 (表記修正)

 ブルックリン(エホバの証人本部)の統治体や日本の支部委員には個人的に親しい指導者たちもいた。(彼らは)私たち家族3人のことを忠実な開拓者の模範であると評価を下し、組織紹介のブロシュアー(冊子)や「ものみの塔」誌に写真入りで取り上げたりもした。



 本部や支部には、このような岩村氏の熱心さを高く評価する人たちがいたようです。これは大問題だと思います。彼のような熱心さは危険なものと認識されて早々に退けられるべきではなかったでしょうか。ところが実際にはそのようにならず、彼らの間では「こんなに熱心にやっているんだから立派なことであるに違いない」というような安易な考え方がまかり通ってしまったようです。エホバの証人組織のこのような姿勢は問題であったと私は思います。

 彼の熱心さは、表向きは望ましい成果を上げたようです。彼は会衆の長老になり、地元神戸でかなりの拡大をもたらします。



◇ 「神のみ名は「エホバ」か」, 岩村義男, いのちのことば社

 「岩村軍団」とねたまれるほど拡大。会場も収容できなくなり、神戸地方では最大の近代的な3階建て王国会館を現場監督として建造。



 続いて、彼はエホバの証人の危険な実態について語りはじめます。



◇ 「神のみ名は「エホバ」か」, 岩村義男, いのちのことば社

 組織が出す3000以上の取り決め(戒律)に縛られている証人は表面とは違って非常に窮屈な生活を送っている。……うつ病にかかっている信者が多い。……組織という鵜飼いに操られる鵜のように、人々を勧誘してきては体がボロボロになるまで働き続けさせる。……さっそうと笑顔を絶やさず伝道する彼らの後ろ姿は真実を物語っている。まるで重い鎖の足枷を引きずっている奴隷のようである。



 このあたりの記述は極端だと感じました。しかし、これは見方の相違だと言えなくもありません。この宗教にうつ病の信者が「多い」という指摘は事実でありませんが、まあそういう見方もできるのでしょう。
 しかしこのあとに、見方の相違では済まされないすさまじい記述があります。



◇ 「神のみ名は「エホバ」か」, 岩村義男, いのちのことば社

 組織の奴隷となった証人にはもはや手を休めるゆとりはない。休日に家族だけで旅行に行っても、伝道をしていない負目に落ち着かない。伝道以外のことに従事すると、極度の罪悪意識にかられる。午前中にバーゲンセールなど買い物などをしているのを仲間の証人に見つかると、スコスコと顔を赤くして立ち去る。



 なんというかもう滅茶苦茶な話だと思います。もはや生活の感覚すらない話だと思います。

 これは彼自身が「岩村軍団」と呼ぶ集団の体質だったのではないか、と私は思います。彼自身“思いこんだら命がけ”の気性を持っており、そんな自分のことを「組織に忠実な兵士」であると信じ切っていたようですから、彼の努力によって獲得された信者たちにも悪影響はあったのだろうと思います。なにからなにまでやり過ぎでものごとの限度を知らない岩村氏の考え方や行動に感化され、それこそが“組織に忠実”ということであると信じる集団ができてしまい、収拾がつかなくなっていたのではないかと思います。

 ここですこし補足しておきたい点ですが、日本では過去にこのようなカルト会衆がいくつも存在していたことが指摘されています。これは日本のエホバの証人に特徴的な問題で、1980年代にピークに達した後、エホバの証人社会がこの問題に真剣に取り組むようになって急速に消失してゆきました。今ではほとんどあとかたもないという問題です。
 組織レベルでこの問題に取り組んで明らかになったのは、そもそも教団が指示していないようなことを教団の指示だと唱えるような人が問題の原因となっていることがほとんどであったということです。それらの人たちは、教団が決めたわけでもない規則を自分勝手に量産し、そのうえ「組織に忠実」などといった不適切な表現を連呼して、自分の規則を会衆の人々に押しつけていました。たとえば、「午前中は聖書伝道の時間であるので買い物には行くべきではない」という規則を作り、その規則に従わない人のことを「組織に忠実でない」と非難するという具合です。
 もし私がこのような会衆にいたなら、「いつ買い物をするかは自分の自由だ」と言うでしょうし、「そもそも“組織に忠実”とはどういうことか」とも言うでしょう。このようなカルト会衆では、そんなことを言う私はつまはじきにされてしまうのかもしれません。岩村氏もそんなカルト長老のひとりだったのでしょう。

 さて、彼は王国宣教学校で訓練を受けたことについてこんなことを書いています。



◇ 「神のみ名は「エホバ」か」, 岩村義男, いのちのことば社 (表記修正)

 表面では愛を説きながら、実情は恐怖政治にほかならない。日本の戦前の全体主義を思わせる権威主義(によって)上官の命令には、絶対に逆らえないように徹底する。伝道に出られらなくなったうつ病・年配の証人に対する仕打ちは悲劇としかいいようがない。使い捨てカイロ同様である。このとき私は、非情極まる組織の正体がわかった。



 彼はほかにもいくつか書いていますが、このあたりのくだりは事実とかなり違うように思いました。どちらかというと逆です。
 この学校に一般の信者が通うことはないので、そのカリキュラムについてはよく知られていません。それで彼は、これなら嘘もばれないと思ってずるをしたようです。彼の頭の中では、この学校で教えられる健全な事柄、たとえば「長老は信者に命令する立場にあるのではない」というようなことは、「表面では愛を説く」ということで退けられてしまっているのかもしれません。

 使い捨てのくだりは論外です。エホバの証人は伝道に出られない人についての自分の宗教の方針を知っていますので、実際にエホバの証人をやっている人でこんな主張に同意する人はまずいないと思います。しかし少数はいるかもしれません。私が疑問に思うのは、岩村氏の言うところの組織や王国宣教学校ではなく岩村氏のほうです。岩村氏がこのようなことを書いているということは、当時実際には岩村氏自身がこのような悪行を行っていて、それを今になって周囲に転嫁しているということではないかと思えるからです。



◇ 「ものみの塔」誌2013年9月15日号, ものみの塔聖書冊子協会 (表記修正)

 病気や老齢のために,望むほど十分には神への奉仕が行なえない兄弟姉妹もいます。しかし,「優しい憐れみの父またすべての慰めの神」は,真のクリスチャン各自の状況を理解しておられます。(コリ二 1:3)わたしたちが王国の関心事を推し進めるために行なう事柄すべてを高く評価してくださいます。もちろんわたしたちは,状況の許す限り最善を尽くしますが,魂を生き長らえさせるのは何といっても,キリストの贖いの備えに対する信仰です。その点を忘れないようにしましょう。―ヘブ 10:39。



◇ 「ものみの塔」誌2006年7月15日号, ものみの塔聖書冊子協会

 クリスチャンの中には,限界があって神への奉仕が十分できないために落胆する人もいます。あなたもそうですか。重い病気や老齢,あるいは他の事情のために,かつて行なっていたほど宣教奉仕に多くの時間を充てることができないかもしれません。確かに,クリスチャンは神への奉仕のために時間を買い取るよう勧められています。(エフェソス 5:15,16)では,実際の限界があるため宣教奉仕において多くのことができず,それが落胆の一因となっているなら,どうでしょうか。
 聖書はわたしたちに,怠惰にならず,「信仰と辛抱とによって約束を受け継ぐ人々に見倣う者」となるよう勧めています。(ヘブライ 6:12)その勧めどおりにするには,それらの人の立派な模範をよく見てその信仰に倣うよう努力しなければなりません。とはいえ,もし他の人と比較して,自分は何一つ十分にはできないと考えるなら,自分の益にはなりません。ですから,パウロの次の助言を当てはめるのは良いことです。「各人は自分の業がどんなものかを吟味すべきです。そうすれば,他の人と比べてではなく,ただ自分自身に関して歓喜する理由を持つことになるでしょう」。―ガラテア 6:4。
 クリスチャンには,たとえ難しい健康上の問題があってできることが限られていても,歓喜する十分の理由があります。「神は不義な方ではないので,あなた方がこれまで聖なる者たちに仕え,今なお仕え続けているその働きと,こうしてみ名に示した愛とを忘れたりはされない」と聖書は保証しています。(ヘブライ 6:10)自分ではどうすることもできない事情のために,かつて楽しんでいた活動のレベルを保つことが難しくなっているとしても,エホバの助けを得て,クリスチャン宣教の特定の面,例えば電話による証言や手紙を書くことなどに,なおいっそう励むことができるでしょう。そして,魂のこもった奉仕や,神と仲間の人間に対して示す愛をエホバ神は祝福してくださる,と確信できるのです。―マタイ 22:36-40。



◇ 「ものみの塔」誌2006年6月15日号, ものみの塔聖書冊子協会

 使徒パウロは,わたしたちが「すべての人,ことに信仰において結ばれている人たちに対して,良いことを行な(う)」ように勧めました。(ガラテア 6:10)ですから,わたしたちは,仲間のクリスチャンがいつ信仰の試みに直面しても霊的な助けを受けられるよう,ぜひ気を配っていなければなりません。しかし実生活において,例えば王国会館へ行くことや食料品を買うことなどの面でも,助けを必要としている人がいるでしょうか。会衆内に老齢や病気や外出できない事情のため,励ましの訪問や援助の申し出に感謝する人がいるでしょうか。わたしたちがそのような必要に目ざとくあるよう努めているなら,エホバは困窮した人の祈りにこたえる手だてとしてわたしたちを用いてくださるかもしれません。仲間を気遣うことはクリスチャンとしての務めですが,そうすることは気遣いを示す人にとっても益となります。仲間の崇拝者に純粋の愛を示すと,エホバから是認されているのを感じ,大きな喜びに包まれて満ち足りた気持ちになるのです。―箴言 15:29。



◇ 「ものみの塔」誌2004年5月15日号, ものみの塔聖書冊子協会

 イエスのようにクリスチャンの監督たちも,真の崇拝を推し進めるためにお年寄りが行なっている事柄を見過ごしません。宣教奉仕に携わり,集会で参加し,会衆に積極的な影響を与え,忍耐を示している老齢の人を長老たちが称賛するのはよいことです。お年寄りは誠実な励ましの言葉を受けると,神聖な奉仕において「歓喜する理由」を見いだせるでしょう。そうすれば,他のクリスチャンのできている事柄と比べて,あるいは自分が以前はできていた事柄と比べて気落ちすることを避けられます。―ガラテア 6:4。
 長老たちは,老齢のクリスチャンの貴重な貢献を認めていることを,その人たちの経験や才能を引き出すことによって示せます。時折,模範的なお年寄りに実演やインタビューを依頼することができるでしょう。「子どもを真理のうちに育て上げた老齢の兄弟や姉妹にインタビューすると,聴衆はまさに姿勢を正して耳を傾けます」と,ある長老は語っています。



◇ 「ものみの塔」誌2011年12月15日号, ものみの塔聖書冊子協会

 仲間の兄弟姉妹と一緒にいると,励ましや慰めが得られます。しかし,病気のために集会に出席できないなら,どうでしょうか。マグダレナは次のように言います。「集会の益を得損なわないよう,会衆の兄弟たちが集会のプログラムを録音してくださっています。何か助けになれないかと,兄弟姉妹がよく電話をくれます。励ましの手紙もよくいただきます。わたしのことを覚えていて,体調を気遣ってくださるので,忍耐することができます」。
 うつ病を患うイザベラは,「会衆には,わたしの話に耳を傾けて気持ちを理解しようとしてくれる“お父さん”や“お母さん”が大勢います。会衆はわたしの家族です。会衆で安らぎや喜びを得られます」と語っています。
 様々な試練に遭う時,「自分を孤立」させないのは良いことです。むしろ会衆との交わりを大切にします。(箴 18:1)そうするなら,他の兄弟姉妹たちに大きな励みを与えることができるでしょう。最初のうち,自分が必要としている事柄を話すのに抵抗を感じるかもしれません。しかし兄弟たちは,あなたが率直に話してくれたことをうれしく思うでしょう。「偽善のない兄弟の愛情」を示す機会を兄弟たちに与えることになるからです。(ペテ一 1:22)集会への交通手段がほしい,奉仕で一緒に働く人がほしい,心を打ち明ける友がほしい,といったことを話してみるのはどうでしょうか。



 王国宣教学校のカリキュラムは相変わらず非公開ですが、最近ではそれに近いものが入手可能です。先日私が感心したのは、エホバの証人の本部にて統治体のメンバーによって行われた『他の人が自分より上であると考えなさい』という講話です。本部で働いている指導層の人たちに対してこういった教えが説かれているということはなかなか結構なことではないでしょうか。

 もっとも、こういった教えに対して言いがかりをつけることは容易だとも思います。批判程度なら結構なことでしょう。しかし、岩村氏のように何事も限度というものを超えてしまうのはどうかと思います。「非情極まる組織の正体」、この表現はいったい何でしょうか。



テモテ第一 6:3-5

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
もしだれかがほかの教理を教え,健全な言葉,すなわちわたしたちの主イエス・キリストの[言葉]に同意せず,また敬虔な専心にかなう教えに[同意し]ないなら,その人は[誇りのために]思い上がっているのであり,何も理解しておらず,疑問をはさむことや言葉をめぐる論争で精神的に病んでいるのです。そうした事から,そねみ,闘争,ののしりのことば,悪意のうたぐりが起こり,また,思いが腐って真理を奪い取られ,敬虔な専心を利得の手段と考える人々の,ささいな事をめぐる激しい言い争いが[起こり]ます。



 さらに岩村氏はこんなことも書いています。



◇ 「神のみ名は「エホバ」か」, 岩村義男, いのちのことば社 (表記修正)

 私は聖書通読を会衆の成員に強調しておきながら、13年間聖書を通読したことがなかった。ところが驚いたことに、親しい長老たちも同様で、13年間に聖書を通読した証人に出会ったこともなかったのである。



 ふつう、エホバの証人なら毎日欠かさず聖書を読んでいるでしょう。仮に怠慢な証人がいたとしても、エホバの証人はみな神権宣教学校の生徒なのですから、そのスケジュールにしたがって週に1回は聖書を読むことになるはずです。
 ここでも私は疑念に思います。彼は自分の過去の怠慢を周囲に転嫁しているのではないでしょうか。そうとしか考えられません。

 彼の回想はいよいよ棄教の時へと進みます。



◇ 「神のみ名は「エホバ」か」, 岩村義男, いのちのことば社 (表記修正)

 キリスト教会攻撃のために約10年前に見たウィリアム・ウッド宣教師の本を捜し出して読み直してみた。さらに、ものみの塔の教えというサングラスをはずして読むと、聖書の内容がハッキリしてきた。……サタンと信じ切っていたキリスト教会こそが真理を擁護している。あれほど毛嫌いしていた十字架を尖頭にいただく教会に対する敵意は和らいでいった。……がむしゃらに歩んできた道は実はサタンに踊らされていたものであると気づくと、衝撃のあまり夜眠れない日々が続いた。……しかし宣べ伝えた人々に対する責任、特に家族や教え子や何の疑問も抱かずについてきている会衆の子どもたちの将来に対する恐ろしさを考えると、地下活動に踏み切らねばと使命感が燃え立った。……3か月後には、組織の預言の間違い、教理の間違いについて賛同する成員も50名を超えるようになった。



 このころの心情について彼は興味深いことを書いています。



◇ 「神のみ名は「エホバ」か」, 岩村義男, いのちのことば社 (表記修正)

 サタンから命を奪われるのではないかと過敏になった。……救出活動は命がけだった。そこで遺言を家に残して説得に出かけた。



 遺言を書くというのは尋常でないと思います。彼が思いこみの激しい人物であることはよく知られていますが、いくら何でも、と思います。もし私がエホバの証人に反対して地下活動を行うとか、エホバの証人をやめるとかいうことを志すとしても、遺言を書いたりはしません。書く理由が見つかりませんから。どうしてエホバの証人をやめるくらいのことで死ぬ心配をしなければならないのか、と思います。

 最終的に、彼は30人ほどの同胞を得て大規模な棄教を成し遂げることになります。最後に彼はこう結んでいます。



◇ 「神のみ名は「エホバ」か」, 岩村義男, いのちのことば社 (表記修正)

 霊的に満たされた喜びと、愛と力とつつしみの霊に導かれて生活できるようになった勝利を妻と分かち合えたことは感謝なことである。……正しいことをしている時に平安と喜びがあるように、今の私たち夫婦には限りない主の恵みと憐れみが注がれていることを感じる。



 こののち岩村氏は脱会請負業者として活躍するようになりました。この本はそのノウハウをもとに執筆されています。

 彼はこの本の最初の部分で、エホバの証人を棄教させるにあたっての彼の基本的な指針がコリント第二 13:1にあることを示しています。



コリント第二 13:1

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
わたしがあなた方のところに行こうとしているのはこれで三度目です。「一切の事は二人か三人の証人の口によって確証されねばならない」のです。



 そのわかりやすい実践例を彼はこのように説明しています。



◇ 「神のみ名は「エホバ」か」, 岩村義男, いのちのことば社

 たとえば「だれの名によってバプテスマを受けますか」という質問に対して、証人がマタイ 28章19節を引用して「それゆえ、行って、すべての国の人々を弟子とし、父と子と聖霊との名において彼らにバプテスマを施し」と答えた場合、本書79-80頁にあるように、1世紀のクリスチャンの三人以上が、主イエス・キリストの名によってバプテスマを受けたことを『新世界訳』から論じるという具合です。



 聖書にはバプテスマ(一般には洗礼と言われる)を指す複数の表現があります。「父と子と聖霊の名によるバプテスマ」という表現がありますし、「イエス・キリストの名によるバプテスマ」という表現もあります。どの表現を用いるにしても、同じバプテスマを指しており、意味するところは同じです。岩村氏の考え方では、エホバの証人が聖書から「父と子と聖霊の名によるバプテスマ」という表現を用いた場合、同じ聖書から「イエス・キリストの名によるバプテスマ」の表現を2つか3つ示すことにより、「父と子と聖霊の名によるバプテスマ」という表現が間違いであることを証明することができます。
 この本はおおかたこの指針に沿って書かれています。

 これはキリスト教のやり方ではないと私は思います。特に岩村氏のような、「偽のキリスト教であるエホバの証人から救出され正しいキリスト教に導き入れられて幸福である」と語る人が用いるものではありません。
 岩村氏が採用したのは、聖書を用いて聖書を否定し信者を混乱させるという、非キリスト教会の脱会請負業者が用いる手法です。これをキリスト教の立場にある者が使うのはどうかと思います。またこのような本をいのちのことば社が出版していることもおかしいと思います。

 これこそが真実だと人が主張することがあった場合、その主張は少なくとも当人にとって真実と信じうるものでなければならない、と私は思います。ところがこの世の中には、当人にとってすら真実ではないことを真実だと信じている人がたくさんいるように私には見えます。そのような主張のために自分の人生を費やしている人もいるように私には思えます。岩村氏の著書にはその傾向が顕著に現れていると私は感じます。

 たとえば、新世界訳参照資料付き聖書の「付録1ハ」に掲載されている10枚の写本と3枚の写真について、彼はこのような理論を展開しています。



◇ 「神のみ名は「エホバ」か」, 岩村義男, いのちのことば社 (表記修正)

 方形文字のテトラグラマトンがあるのは付録1ハの(1)の紀元前1世紀ごろのP.ファド目録266号だけです。……いずれにしましても、付録1ハの引用されている写本の写真を注意深くご覧ください。旧約聖書のギリシャ語訳に יהוה を明確な方形文字で発見することは不可能です。



 彼はここで二重の回避を行おうとしています。旧約聖書のギリシャ語訳における神名(テトラグラマトン/יהוה)は古ヘブライ文字や代用文字で表記されるのが通例で、方形文字を用いるものは例外です。彼はまず「方形文字のテトラグラマトンがあるのは」と述べることにより、自分にとって不都合な事実の大半を消去しています。続いて、残った1つの写本についても、その神名が「明確な方形文字のיהוה」でないとして退けています。ここで彼は、方形文字の基本的な書体と筆記体とが完全には一致しないことにつけ込んでいます。筆記体のAは活字のAとは文字が違うというわけです。
 彼はこのように主張したうえで、「付録1ハ」のコピーを掲載して、今度はこう質問しています。



◇ 「神のみ名は「エホバ」か」, 岩村義男, いのちのことば社 (表記修正)

 写真をよくごらんください。紀元前のセプトゥアギンタ訳の(2)-(10)の中には、方形文字 יהוה が登場していますか。方形文字 יהוה のある写本があるでしょうか。



 文章をよく見ると、「(2)-(10)」となっています。(1)が抜けています。ここでの問題は、このような手の込んだ論法によって、実質的には「旧約聖書のギリシャ語訳写本にテトラグラマトンは存在しない」という主張が唱えられていることです。

 普通の感覚では、このような論法を用いる人がその主張を心底から真理と信じているということは考えられません。本心では逆のことを信じているからこそ、このような詐欺的な論法が出現するのであり、唱えられる論法自体がその正体を明らかにしています。
 ところが岩村氏の場合、彼をよく知る人や彼について詳しく調べた人の意見を集約するに、どうやら彼はこのような主張を本心から信じきったたうえで唱えているようです。“思いこんだら命がけ”の気質は彼の本質であるようで、自分で考えた嘘であっても、やがては真実であると確信してしまうようです。現に彼は自分の主張にその人生をかけていますし。

 伝えられるところによると、エホバの証人をやめた後の彼の人生は、自ら有形無形の資産を食いつぶしていくものであったということです。この本を出版したこともそうです。彼と共に棄教したおよそ30人の仲間のうち、この本を読んでその内容に同調できた人はいったい何人いたでしょうか。

 諸教会との関係についても同様です。彼がエホバの証人をやめたとき、諸教会は彼を歓迎し、彼に大きな期待を寄せました。これほどの大物の証人が棄教して伝統教会に転向するということははじめてだったからです。諸教会はエホバの証人のことを異端でありカルトであると信じていますから、彼らの考えるところの“エホバの証人対策”や“エホバの証人救出”にとって貴重な人材が獲得できたと大喜びしたものです。
 ところが、そのような諸教会の期待に応えて彼が種々の活動を行うようになると、一転して諸教会には船酔いにも似た深刻な絶望感が広がるようになりました。この人は言うこともやることも滅茶苦茶であるということが発覚したからです。
 結局、諸教会は当面の利益のために彼の問題を放置しておくことにし、いのちのことば社も、問題が多すぎるにもかかわらず彼の著書を出版し続けています。こうして、表向き彼の名誉は守られていますが、実際には、彼は諸教会から無視されています。

 一方で、諸教会には彼を篤く信奉する動きもあります。こういった教会の牧師や信徒たちには、彼の本を読んでどこがおかしいのか判断するほどの基礎的な知識や読解力がなく、これはこれでやむなく放置されているのが実情です。また、エホバの証人の妻を持つ反対者の夫たちの中には、岩村氏は正直者であるとの一定の評価があるそうで、「ウッド氏や中澤氏は嘘つきだから信頼できない」などと言って岩村氏からの援助を求める方が多いとのことです。この問題もまた諸教会から放置されています。なにしろ、ウッド氏や中澤氏が岩村氏より嘘つきであるというのは事実なのですから。

 結局のところ、問題解決の鍵はいのちのことば社にあると私は思います。日本には幾つかのキリスト教出版社がありますが、ほかのキリスト教出版社が彼の本を出すということはちょっと考えられませんので、いのちのことば社が彼を見捨てるようになれば彼の命運は尽きるのではないかと思います。