エホバの証人の聖書

ローマ 13:1

新世界訳聖書(エホバの証人)「すべての魂は上位の権威に服しなさい。神によらない権威はないからです。存在する権威は神によってその相対的な地位に据えられているのです。」

新改訳聖書(ファンダメンタル)「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。」


 「エホバの証人統一協会対策香川ネット」という団体の「宗教研究家 正木 弥」は、「ものみの塔の新世界訳聖書は改ざん聖書」という文書の中で、この聖句についてこう述べています。

『ギリシャ語本文の"τεταγμεναι"の原形は"τασσω"であって、その意味は英語で言えば"ordain"とか"institute"です。日本語では、規定する、制定する、立てる、といった意味合いのことばです。新世界訳(英文)の"in their relative positions"といった意味はどこにもありません。どこからひねり出してくるのでしょうか。新世界訳(日本語)では「その相対的な地位に」と、神様のなさったことを枠に入れてしまいました。人やその団体がそんな大それたことをしていいのでしょうか。』(一部表記訂正)


 この聖句の翻訳については、「ものみの塔」誌1996年5月1日号がこう説明しています。

『1961年に「新世界訳聖書」が完成しました。これを準備するには聖書本文の語法を綿密に研究することが必要でした。ローマ 13章だけでなく,テトス 3章1節と2節,またペテロ第一 2章13節と17節などでも使われている語句が厳密に翻訳された結果,「上位の権威」という語は,至上の権威であるエホバとみ子イエスではなく,人間の政府の権威を指していることが明らかになりました。1962年の末,「ものみの塔」誌に,ローマ 13章を正確に説明すると共に,C・T・ラッセルの時代よりも明確な見解を示す記事が載せられました。それらの記事は,政府の権威に対するクリスチャンの服従が全面的なものではあり得ないことを指摘しました。その服従は相対的なものでなければならず,神の僕が神の律法に背く結果にならない場合に限定されます。「ものみの塔」誌のその後の記事でもその重要な点が強調されました。
こうしてエホバの民は,ローマ 13章を正しく理解するためのかぎを得たことによって,政治上の権威にふさわしい敬意を払うことと,肝要な聖書的原則に基づいて妥協のない立場を保つこととの平衡を取れるようになりました。(詩編 97:11。エレミヤ 3:15)また,神との関係や自分たちと国家とのかかわりについて適正な見方ができるようにもなりました。カエサルのものをカエサルに返しつつ,神のものは怠りなく確実に神に返すことができるようになったのです。』


 この説明はちょっと分かりにくいかもしれません。すこし順を追って説明していきたいと思います。

 キリスト教は平和を教える宗教であり、本来、戦争とは全く無縁のものです。でも、歴史を通して、キリスト教は戦争の宗教となってきました。それは今でもそんなに変わっていません。おそらく、このサイトを訪れる皆さんも、「どうしてキリスト教の国が戦争ばかりしてきたのだろうか」とか、「どうして教会や牧師が戦争を支援しているのだろう」と思っていることでしょう。
 これには、キリスト教の“義戦論”という神学が深く関係しています。この教えの成立について、「良心的兵役拒否の思想」という本はこう述べています。

『(キリスト教の平和主義によって)絶対に強大な帝国主義・軍国主義の権力と、ただ良心のみを「武器」とする赤手空拳の人々の平和主義の精神力との戦いが、世界史的な意味ではじめて登場した。しかし、世の事は、必ずしもかんたんに動いてゆくものではない。そのキリスト教の平和の精神の中から―そののちの歴史の進行につれて「正義の戦争」は可であるという観念が発生するようになってゆくのである。
 歴史の流れの中において、状況に応じて、時としては正義の戦争論の根拠を、聖書から引き出そうとすることもなされたのであった。そのような引用をしようとするものは古来跡をたたず、今日にも及んでいる。
 アタナシウス(295年頃-373年)は、現代まで不動の三位一体論の基礎を定めたとされる教父であるが、彼はいった。「殺すことはゆるされぬが、しかし戦争においては、敵を殺すことは正当であるのみならず、称賛すべきである」。
 ミラノの大司教アンブロシウス(340年頃-397年)も「戦争に際して外敵から祖国を守り、国内の弱き者を保護し、侵略者の手から同盟国を解放するといった勇敢さは、まったく正当なものである」といった。
 偉大な聖アウグスティヌス(354年-430年)も、このようにいった。「主イエス・キリストがみずから『悪に手向かうな』といわれたゆえ、神が戦争を命じたまうわけはないと考えるものがあるならば、私はいおう、ここに要求されているのは行動ではなく、心の問題であるのだ、と。……愛は善良な人々によっておこなわれる慈悲の戦いを認めるものである」。
 (キリスト教の)正義の戦争という概念は、このあたりで基礎づけられることになったと見ていいであろう。今日における戦争の正当化や自衛論も、本質的には何ほどにもこれにつけ加えるものをもっているとは思われない。』
(各部省略・表記等修正)

 聖書の教えを曲解しながら成立したこの義戦論の教えですが、これが今でもよく守られています。
 たとえば、この本はこう書いています。

『ロマン・ロランは、ジュネーブ新聞に、「今度の伝染病的戦争によって、もっとも弱点をしめした精神力は、キリスト教と社会主義とである」と書いた。ロランはいう。「二万人のフランス司祭が軍旗の下に進軍する。ジェズイト派教徒がドイツ軍に奉仕する。(カトリックの)枢機卿たちが戦争教書を発する。……新聞は、イタリアの社会主義者たちが、ピサの停車場で、神学生たちが彼らの連隊に入るのを歓呼して、ともに軍歌をうたうという矛盾した光景を報じてなんら怪しむ様子もない」。
 大戦勃発にあたって、各国の教会はその政府を支持した。
 ドイツでは、カトリックやプロテスタントの神学者や聖職者たちの多くが、自衛することは、正義の戦争以外のなにものでもないと主張した。(一方のイギリスの、)ロンドンの主教はいった。「ドイツを殺せ―殺戮を目的とするのでなく、世界を救わんがために。」』
(各部省略・表記等修正)

 こんな調子で、昔から教会は戦争を支援してきました。普段の平和な時期には愛と平和の教えを説き、「戦争はよくない」ということを言うのですが、戦争が始まるととたんに態度を変えて、「戦争は正しい」と言い始めるのがキリスト教のやり方です。そして、戦争が終わるとまた態度を変えて、愛と平和の大切さなるものを説き始めるということを繰り返しています。(最近はいくらか変わったようにも思いますが、果たしてどうなんでしょう?)
 戦争が始まると、どの教会も前線の兵士たちのために祈りをささげます。さらに、教会に通う若者たちは牧師から「あなたはどこにいますか。どうしてここに座っているのですか」などと言われます。教会で「今は結婚したりして自分の生活を楽しむ時ではありません。軍に志願して国を守りなさい」と牧師に言われて、結婚をあきらめて戦争に赴いた若者はそれこそ何百万といたんじゃないかと思います。
 特に第二次世界大戦の時には、エホバの証人はキリスト教の平和主義を守ろうとしてたいへんな苦労をしました。先に触れた本はこう書いています。

『この時期に強固な反戦行動をとった「ものみの塔」または「エホバの証者」の一派についてのべておく必要がある。第一次世界大戦には20名以上のものが、兵役拒否のため軍の収容所や監獄に入れられていた。戦争末期には指導者ラザフォードその他が、逮捕され起訴された。さらに戦後、とくに1930年代には彼らへの弾圧はいっそう強化された。1933年には268、翌年340その翌年478、その翌年には1149と、起訴件数が増加した。……信教の自由について寛大だったアメリカでも、彼らへの弾圧はつづいたのである。』

 と、すこし説明が長くなりましたが、こんなキリスト教諸教会が戦争を美化するために使っていた聖書の言葉の一つが、今問題となっている聖句です。「国というのは神様の代理機関なのだから、国が戦争をするということは、すなわち神様が戦争をするということなんだ」と教会は説いてきましたし、信徒たちも、「国が過ちを犯すからといって、人間がそれをとがめてはならない。ただ神様だけがそれをとがめることができるのだから、私たち人間は謙虚になって、ただそれに従うのみだ」などと考えました。
 そんな諸教会に対し、エホバの証人は徹底した抵抗を行ってきました。第二次世界大戦前後には、これらの教会が戦争を推進するやり方に対抗して「若者たちは結婚を控えて聖書伝道に励みなさい」ということを熱心に説いたこともあります。エホバの証人はそのような宗教ですから、この聖句を解釈するにあたっても他の一般的な教会と一線を画しました。キリスト教の成立初期から、この聖句について、「“上位の権威”とはキリストのことであって国家のことではない」という見解が少数ながらあって、エホバの証人はそれを採用しました。
 しかし、エホバの証人の間で聖書の研究が進むと、間違いが訂正されて「聖書の言う“上位の権威”とはキリストのことではなく国家のことである」ということがはっきりしてきました。
 それで、新世界訳聖書の翻訳者が考えたのが「じゃあ、この教えを悪用をされないように、ここに『相対的な』という但し書きをつけておこう」ということです。つまり、国家が神の代理機関であるとしても、それは絶対的な権威ではない、別の言い方をすると、国から戦争することを命令されても従う必要はない、ということです。
 これは、考えれば当たり前のことです。たとえば、「ものみの塔」誌1993年2月1日号はこう説明しています。

『しかし明らかに,カエサル(国家)に対するそうした服従はすべて相対的なものでなければなりません。わたしたちは,マタイ 22章21節に記されているイエス・キリストの述べた次の原則を常に念頭に置いていなければなりません。「それでは,カエサルのものはカエサルに,しかし神のものは神に返しなさい」。「スコフィールドのオックスフォード新国際訳研究聖書」のローマ 13章1節の脚注にはこうあります。「これは,不道徳な法規やキリスト教に反する法規にも従わなければならないという意味ではない。そのような場合は,人間よりも神に従う責務がある(使徒 5:29。ダニ 3:16-18; 6:10以降と比較)」。』(一部補記)

 そのようなわけで、エホバの証人の聖書には、聖書原典にはない「相対的な」という言葉があります。


 ここで少し聖書翻訳の分類ということを考えたいと思います。
 聖書翻訳は大きく「字義訳」と「意義訳」に分かれます。「意義訳」にはさらに、読みやすさを優先するものと、意味の確立を優先するものとに分けられます。意味の確立を目指すものとして主流なのが「動的等価法」とされる翻訳法です。これに対して字義訳は「形式的対応法」と呼ばれることもあります。
 動的等価法とは、「訳文の語句ではなく、訳文の働きが原典と等価であるべき」という考え方です。これは、形式的な訳語の対応による従来の翻訳法では、原文の言わんとしていることと訳文が言っていることとが異なってしまうことがあるという問題に対する解決策として唱えられたものです。こういう問題があるところでは、訳文がたとえ大きく変わってしまうとしても、その文の果たす役割が同じである訳し方をすべきだという考えです。
 新世界訳聖書の「相対的な」という語の挿入は、この動的等価法にあたります。昔の聖書翻訳の考えでは決して認められないことでしたが、現在のすすんだ聖書翻訳の考えではむしろ推奨されている類のものです。ですから、聖書へのこういった付け足しをとがめて「エホバの証人は聖書を改ざんしている」と言うのは不見識なことではないかと思います。

 特に正木氏の場合、『新世界訳では「その相対的な地位に」と、神様のなさったことを枠に入れてしまいました。人やその団体がそんな大それたことをしていいのでしょうか。』などと言っていることが大問題です。彼は「宗教研究家」を自称していますが、その割には自分の言葉が何を意味しているか理解していないようです。
 この聖句にはその解釈の歴史が重くのしかかっているのですから、このように言うと、「やはり戦争するのがよろしい」という意味になります。当人は気づかないのかもしれませんが、それ以外の何ものでもありません。彼はそのことを理解しているのでしょうか。理解していないとすれば宗教研究家などという肩書きは使えないでしょうし、理解したうえであえてこのようなことを言うのだとすればもはやどうしようもないでしょう。


 ここで、聖書の翻訳とは論点が外れますが、二つの点を述べておきたいと思います。反対者たちがエホバの証人の信用を下げようとしていろいろと言っていますから。

 まず、「ものみの塔」誌1977年6月15日号です。

『神が各人に従うことを求めておられる,人間の活動分野はほかにもあります。例えば,家族の中に平和や調和そして幸福が見られるためには,結婚関係において従順が求められます。公正が行き渡るためには,市民が政府に対して従順を示さねばならず,仕事を成し遂げるためには,しもべたちや従業員が主人や雇用者に従わねばならず,会衆の成員は,相互の益のために会衆の監督たち,つまり長老たちに従わねばなりません。もちろん,そのような従順はどれも相対的なものです。つまり,そうした従順は,それが神の命令に反しない限り示されるべきであるということです。』

 エホバの証人にとって、「相対的な服従」は、国家に限らず、神の権威とされるすべての権威に対する服従に適用される概念です。それは、エホバの証人の会衆の長老たちも含まれています。

 もう一つは、「ものみの塔」誌1995年10月1日号です。

『国際連合に対するクリスチャンの見方
 聖書の預言の中では,人間の政府はしばしば野獣で表わされています。ですから,「ものみの塔」誌は長年,啓示 13章と17章の野獣の実体を,今日の世の諸政府としてきました。国際連合もこの中に含まれており,啓示 17章では,国連は七つの頭と十本の角を持つ緋色の野獣として描かれています。
 しかし,聖書のこの見解は,政府や政府の役人に対するいかなる形の不敬をも許容するものではありません。聖書ははっきりとこう述べています。「すべての魂は上位の権威に服しなさい。神によらない権威はないからです。存在する権威は神によってその相対的な地位に据えられているのです。したがって,権威に敵対する者は,神の取り決めに逆らう立場を取っていることになります。それに逆らう立場を取っている者たちは,身に裁きを受けます」。
 したがって,政治的な中立を厳正に守っているエホバの証人は,人間の政府に干渉しません。革命を扇動したり,市民的不服従の活動に参加したりすることは決してありません。むしろ,人間社会の中で法と秩序を維持するには何らかの形態の政府が必要であることを認めています。
 エホバの証人は,国際連合機構を世界の他の行政機関と同じように見ています。そして,国際連合が神の許しのもとに引き続き存在することを認めています。エホバの証人は,聖書と調和して,すべての政府に当然の敬意を払い,そのような従順が神に対して罪を犯すことにならない限り政府に従います。』

 エホバの証人は国際連合を神の権威と考えています。それで、聖書の教えに反するのでない限り、国だけでなく国際連合にも従い、協力します。


 「フリーマインドジャーナル」1994年6月号に掲載された、「新世界訳聖書における改竄」リストは、この聖句についてこう述べています。

『「存在する権威は神によって立てられたものである」が「存在する権威は神によってその相対的な地位に据えられている」に置き換えられている。エホバの証人は、国旗掲揚や兵役やそれに類似した国家崇拝的奉仕について考慮し、聖書によって公布された国家の権威を弱めようとしてこの語を加えた。』

 フリーマインドジャーナルの言い方はより露骨であるように感じます。


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