新世界訳
エホバの証人の聖書

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ヤコブ 2:18

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
しかしながら,ある人はこう言うことでしょう。あなたには信仰があり,わたしには業があります。業を別にしたあなたの信仰をわたしに見せてください。そうすれば,わたしは自分の信仰を自分の業によってあなたに見せてあげましょう

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
ある人はこう言います。あなたは信仰を持っていて,私は行動しています。行動を別にしたあなたの信仰を見せてください。そうすれば,私は行動によって自分の信仰を見せましょう

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
逆に、こう言う者もいるでしょう。あなたには信仰があり、私には行いがある。行いのないあなたの信仰を見せてください。そうすれば、私も行いによって、私の信仰を見せましょう。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
しかし、あなたには信仰があり、わたしには行いがあると言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。

◇ 新改訳聖書 [2017年版] ◇ (ファンダメンタル)
しかし、ある人には信仰があるが、ほかの人には行いがありますと言う人がいるでしょう。行いのないあなたの信仰を私に見せてください。私は行いによって、自分の信仰をあなたに見せてあげます。

◇ 新改訳聖書 [第三版] ◇ (ファンダメンタル)
さらに、こう言う人もあるでしょう。あなたは信仰を持っているが、私は行いを持っています。行いのないあなたの信仰を、私に見せてください。私は、行いによって、私の信仰をあなたに見せてあげます。



 ヤコブ 2:18では、聖書によって括弧の位置が異なります。
 これは、聖書原典に括弧が存在しないことによって生じる問題だそうです。括弧は翻訳者の推察に基づいて追加されますので、聖書原典の書き方があいまいだと、このようなことが生じてしまいます。
 この句について、「ヤコブの手紙の注解」はこのように解説しています。



◇ 「ヤコブの手紙の注解」, ものみの塔聖書冊子協会

 ここでヤコブは修辞的技巧を用いています。信仰と業に関する霊感による自分の言葉に異議を唱える者がクリスチャン会衆と交わる者の中にいることを予期していたことは明らかで,ヤコブは「ある人」に上記の引用句を会衆の別の成員に対して語らせています。

 ヤコブの論議を支持する人とみなされている者のように,その「ある人」は,信仰さえあれば十分だと信じている反対者に話しています。「ある人」は反対者に言います。「あなたには信仰があり[あると主張する],わたしには業があります」。そして次に挑戦を投げかけます。「業を別にしたあなたの信仰[と考えているもの]をわたしに見せてください。そうすれば,[ヤコブの論議を支持する]わたしも自分の信仰を自分の業によってあなたに見せてあげましょう」。確かに,信仰があると主張しながらその存在を証明する業をもたない人は,実際には,救いに至る真の信仰をもっていないと言えるでしょう。その人が信仰と考えているものは,命のないまがいものと言えます。

 また別の面からみればヤコブは,信仰と業に関する論議に反対する者の役を,この「ある人」に振り当てることを意図していたと考えられるかもしれません。ヤコブが,「しかし」または「しかしながら」という意味のギリシャ語で文を書き始めている事実は,この結論を支持します。そうすると,反対者が会衆の別の成員に対して言う言葉は,「あなたには信仰があり,わたしには業があります」となるでしょう。あるいは次の新英訳聖書の訳のようになるでしょう。「しかし,ある人はこのように反対することでしょう。『信仰を持っていると言う人もいれば,自分の行ないを指摘する人もいる』」。(ギリシャ語原文には引用符はないので,『ある人の』言ったことはここで終わると見ることができるかもしれません。)
 ヤコブがその「ある人」に言わせた言葉はどう理解すればよいでしょうか。ここに描かれている人は,ヤコブの論法は間違いだと信じている人と言えるでしょう。会衆の別の成員,つまり信仰をもっていると言いながら業の伴わない人を,その人は安心させ慰めています。業のないその人にこういう意味のことを言っています。『あなたの信仰で十分です。会衆内のある成員は信仰を持つでしょうし,別の成員は業を持つでしょう。それでいいのです。信仰と業は別のものですが賜物であることには変わりありません。だれだって,クリスチャン会衆の成員の間に見られる多くの才能を全部身につけることなどできはしないのですから,気にしないほうがいいですよ。ヤコブは業を重要視しすぎています。大丈夫です。安心してください。たとえ(ヤコブが15,16節で言及している,困っている兄弟姉妹に食物や衣服を与えるような)業はなくても,信仰があればそれで十分神のおぼしめしにかなうのですから』。

 そこでヤコブは答えます。 「業を別にしたあなたの信仰をわたしに見せてください。そうすれば,わたしも自分の信仰を自分の業によってあなたに見せてあげましょう」と。言い換えればヤコブは,信仰があると主張しながらそれを実証する業のない人に挑戦しています。その主張には,裏づけとなる形に表われた業がありません。しかし,ヤコブの方には,真の信仰の存在を証明する行ないがあります。

 引用符の置き場所についてどちらの見方を取るにしても,示されている基本的な点が同じであることは明らかです。要するに,真のクリスチャンは信仰と業の両方を持っていなければならないということです。
 ここで言われている信仰は,イエス・キリストに対する基本的な信仰で,クリスチャンにとって不可欠のものです。しかし,単なる信仰の告白は,その存在を証明するものではありません。真の信仰にはそれと不可分の業があります。業のない信仰は真の信仰ではありません。そのような信仰は,だれがそれを確認し,見ようとしても影も形もありません。その存在を証拠づけるものを何も生み出さないからです。良い業が証拠として存在しているべき所がからの状態です。真の信仰と業は切り離せないものです。ですからヤコブの反論は,真の信仰が実質のあるものであることを示しています。そのような信仰は,クリスチャンを動かして業を生み出させる力があることを実際に示します。



 かなり解りにくいと思います。整理しましょう。

 先に後半部分を見ましょう。後半の「見せてください」の部分は、ヤコブの言葉かもしれませんし、ヤコブでない誰かの言葉かもしれませんが、どちらの場合でも、間違いに対する反論であり、意味は同じです。信仰と行いとは別々には存在しないということです。“信仰だけを持っていて行いのない人”などいません。

 続いて前半部分です。前半部分の読み方は二通りあります。
 1つ目は、「私は行いは全くできてないんですがそれでも信仰はありますそれで充分です」と言い訳する人に向かって、「私には信仰も行いもありますよ」と皮肉を言う人がいるという読み方です。皮肉を言う人とヤコブは同じ見解ですので、後半部分は、皮肉を言う人のセリフにすることも、ヤコブのセリフにすることもできます。
 2つ目は、「クリスチャンは人それぞれだから、“信仰だけの人”もいれば“行いのある人”もいる」と主張する人がいるという読み方です。その人は「どっちでもいいじゃないか」と考えています。その人自身には信仰も行いもあるようですが、それでもこのようなことを言うのです。この場合、先ほど登場した皮肉を言う人はおらず、後半部分はヤコブのセリフになります。

 もっとも、どちらの読みを採用したとしても、結論的なところは変わらないようです。ようするに、信仰には行いが伴っていなければなりません。






 ヤコブがこの言葉を書いた背景には、現代の神学で『信仰義認』と呼ばれる考え方が関係していたようです。この考えを述べたものの一例として、ローマ 4:5を見てみましょう。



ローマ 4:5

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
他方,罪人を正しいと認める神に信仰を持つ人は,行いがなくても,信仰のゆえに正しいと見なされます。



 聖書のこの言葉だけに注目して杓子定規に解釈すると、人は心の中で神を信じさえすれば善い行いをしなくても救われる、ということになります。実際そのように聖書を解釈する人がいたため、ヤコブは反論を述べたということのようです。

 もっとも、ヤコブがこのように反論を述べたにもかかわらず、今でもキリスト教世界にはこういうことを主張する人がいたりします。キリスト教神学の世界には、聖書の特定の句を字義通りに解釈して極端な結論に至るという人がたくさんいて、この種の問題はなかなかなくなりません。
 最近は、神学上の推論というよりは、単なるご都合によって、このような主張が受け入れられるようになっています。最近の多くの教会は信徒たちにこのように言います。神様はとっても心の広い方ですので“ありのまま”のあなたを受け入れてくださいます。ですから、神に受け入れてもらうためにあれをしなければならないこれをしなければならないというようなことを考える必要はありません。ただ素直に神を信じる気持ちさえあれば神はあなたを救ってくださるのです。






 ところでですが、2018年の8月から、上に引用した「ヤコブの手紙の注解」が入手できなくなっていますのでその点に触れておきたいと思います。

 この本は、エホバの証人の出版団体であるものみの塔聖書冊子協会から1979年に発行された後すぐ、背教問題に絡んで絶版になったと言われています。実際、書かれている内容には少し問題があります。そんな事情が背景にあって、エホバの証人に反対する人たちの間には「教団はこの本を“発禁”にした」という主張があります。
 ところが実際には、この本はエホバの証人によって長期にわたって使われてきました。彼らがこの本を集めて捨てたとか、焼却してしまったという話もありません。
 2005年8月に、ものみの塔聖書冊子協会はこの本の在庫をアナウンスしましたが、どうやらこれが最後の在庫だったようです。それでも、この本はものみの塔聖書冊子協会が発行している“Watchtower Library”に収録され、引き続き使用されました。
 問題点が指摘されているにもかかわらず、証人たちはこの本をとても高く評価しています。

 ところが、2018年8月になって、この本の Watchtower Library への収録は取りやめになりました。おそらくですが、理由は二つ考えられます。2018年8月に、Watchtower Library はエホバの証人の公式サイトにて一般に公開され、誰でも無料で利用できるようになりました。一般にも提供する以上内容に問題のあるものは省いておくべきだという判断が働いたものと考えられます。また、今ものみの塔聖書冊子協会ではスタディー版の聖書の製作が行われています。スタディー版との世代交代ということも考慮したのだろうと思います。

 エホバの証人の多くは、このことを知ってショックを受けると思います。しかし慌てることはありません。引き続きこの本を使用したい方は2014年版の Watchtower Library をインストールすることができます。2014年版は最新版と併用できますので、インストールしても特に問題は生じません。