エホバの証人の聖書

ヤコブ 2:18

新世界訳聖書(エホバの証人)「しかしながら、ある人はこう言うことでしょう。「あなたには信仰があり、わたしには業があります。業を別にしたあなたの信仰をわたしに見せてください。そうすれば、わたしは自分の信仰を自分の業によってあなたに見せてあげましょう」。」

口語訳聖書(カトリックとプロテスタント)「しかし、「ある人には信仰があり、またほかの人には行いがある」と言う者があろう。それなら、行いのないあなたの信仰なるものを見せてほしい。そうしたら、わたしの行いによって信仰を見せてあげよう。」


 口語訳聖書と新世界訳聖書では、角かっこの位置が違います。
 新世界訳は誤訳なのでしょうか。

新改訳聖書(ファンダメンタル)「さらに、こう言う人もあるでしょう。「あなたは信仰を持っているが、私は行ないを持っています。行ないのないあなたの信仰を、私に見せてください。私は、行ないによって、私の信仰をあなたに見せてあげます。」」

 新改訳聖書の内容からすると、新世界訳聖書は誤訳ではないようです。


 ここのところは、新世界訳聖書のようにも口語訳聖書のようにも読めるそうです。
 聖書原典には台詞を明確にする引用符がないため、台詞が始まるところははっきりしていても、どこまで文章が進んだところで台詞が終わるのかがよくわからないというころが幾つもあります。これはその一つです。
 このことについては、「ヤコブの手紙の注解」がよく解説しています。
 新世界訳聖書や新改訳聖書の読みはこのように示されています。

『ここでヤコブは修辞的技巧を用いています。信仰と業に関する霊感による自分の言葉に異議を唱える者がクリスチャン会衆と交わる者の中にいることを予期していたことは明らかで,ヤコブは「ある人」に上記の引用句を会衆の別の成員に対して語らせています。
ヤコブの論議を支持する人とみなされている者のように,その「ある人」は,信仰さえあれば十分だと信じている反対者に話しています。「ある人」は反対者に言います。「あなたには信仰があり[あると主張する],わたしには業があります」。そして次に挑戦を投げかけます。「業を別にしたあなたの信仰[と考えているもの]をわたしに見せてください。そうすれば,[ヤコブの論議を支持する]わたしも自分の信仰を自分の業によってあなたに見せてあげましょう」。確かに,信仰があると主張しながらその存在を証明する業をもたない人は,実際には,救いに至る真の信仰をもっていないと言えるでしょう。その人が信仰と考えているものは,命のないまがいものと言えます。』

 続いて、口語訳聖書の読みが示されています。

『また別の面からみればヤコブは,信仰と業に関する論議に反対する者の役を,この「ある人」に振り当てることを意図していたと考えられるかもしれません。ヤコブが,「しかし」または「しかしながら」という意味のギリシャ語で文を書き始めている事実は,この結論を支持します。そうすると,反対者が会衆の別の成員に対して言う言葉は,「あなたには信仰があり,わたしには業があります」となるでしょう。あるいは次の新英訳聖書の訳のようになるでしょう。「しかし,ある人はこのように反対することでしょう。『信仰を持っていると言う人もいれば,自分の行ないを指摘する人もいる』」。(ギリシャ語原文には引用符はないので,『ある人の』言ったことはここで終わると見ることができるかもしれません。)』

 この本はさらに続けて、これをどちらの意味に読むとしても、その要旨は同じであることを指摘しています。

『ヤコブがその「ある人」に言わせた言葉はどう理解すればよいでしょうか。ここに描かれている人は,ヤコブの論法は間違いだと信じている人と言えるでしょう。会衆の別の成員,つまり信仰をもっていると言いながら業の伴わない人を,その人は安心させ慰めています。業のないその人にこういう意味のことを言っています。『あなたの信仰で十分です。会衆内のある成員は信仰を持つでしょうし,別の成員は業を持つでしょう。それでいいのです。信仰と業は別のものですが賜物であることには変わりありません。だれだって,クリスチャン会衆の成員の間に見られる多くの才能を全部身につけることなどできはしないのですから,気にしないほうがいいですよ。ヤコブは業を重要視しすぎています。大丈夫です。安心してください。たとえ(ヤコブが15,16節で言及している,困っている兄弟姉妹に食物や衣服を与えるような)業はなくても,信仰があればそれで十分神のおぼしめしにかなうのですから』。
そこでヤコブは答えます。「業を別にしたあなたの信仰をわたしに見せてください。そうすれば,わたしも自分の信仰を自分の業によってあなたに見せてあげましょう」と。言い換えればヤコブは,信仰があると主張しながらそれを実証する業のない人に挑戦しています。その主張には,裏づけとなる形に表われた業がありません。しかし,ヤコブの方には,真の信仰の存在を証明する行ないがあります。
引用符の置き場所についてどちらの見方を取るにしても,示されている基本的な点が同じであることは明らかです。要するに,真のクリスチャンは信仰と業の両方を持っていなければならないということです。』


 さて、この聖句には『信仰義認』の教理が絡んでいます。
 信仰義認に関する聖句はいくつかありますが、ローマ 4:5を挙げたいと思います。

新世界訳聖書(エホバの証人)「他方,業を行なわなくても,不敬虔な者を義と宣する方に信仰を置く人に対しては,その人の信仰が義とみなされるのです。」

 聖書のこの言葉だけに注目すると、心の中で神を信じていれば、たとえ不敬虔な者であり、よい行い(業)を欠いていても、その人は救われるということになります。実際にそのように聖書を解釈する人がいたため、ヤコブは反論を述べたということのようです。

 ヤコブがこのように反論を述べたにもかかわらず、信仰義認に関する極端な教理は、今でも多くの教会で幅を利かせ、主流となっています。

 引用の「ヤコブの手紙の注解」は、そういった教会の実態をよく把握しており、教会の牧師が教会員に何を吹き込んでいるかを反映した内容となっています。こういった書き方をされると、諸教会としてはとても痛いのではないかと思います。わかる人にはわかる書き方ですから。

 さらに度を超した教会もあります。彼らは多少なりとも業を重んじる教派を攻撃し、「彼らはキリストの十字架の救い(信仰義認のこと)を正しく認めず、こうしてキリストに十分に頼ることができないため、業の救いに頼るのだ」と言います。ちなみに、彼らの一番の攻撃対象はエホバの証人です。エホバの証人は信仰を業によって証明しようとする数少ない教派の一つであり、また最大の教派ですから。


 余談になりますが、引用の「ヤコブの手紙の注解」の本について一言書いておきたいと思います。
 この本は、エホバの証人の出版団体であるものみの塔聖書冊子協会から発行された後、おそらく背教問題に絡んで絶版になったのですが、エホバの証人に反対する人の中には、この本が絶版になったいきさつをもっともらしく語っては、「エホバの証人はこの本を“発禁”にした」と言う人がいます。彼らは、エホバの証人がどうしようもないカルトで、度を超して排他的であると主張したいようです。
 この本は絶版になりましたが、発禁にはなっていません。エホバの証人がこの本を集めて焼却したとか、捨ててしまったという話もなく、今でもこの本は用いられています。
 それに、絶版になったといっても、入手できないわけではありません。今はものみの塔協会が発行している“Watchtower Library CD-ROM”に収録されていますし、2005年8月の時点で、ものみの塔聖書冊子協会にはこの本の在庫があり、注文を受けつけているとのことです。

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