新世界訳
エホバの証人の聖書

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ルカ 23:43

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
すると[イエス]は彼に言われた,「今日あなたに真実に言いますが,あなたはわたしと共にパラダイスにいるでしょう」。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。



 新共同訳聖書と新世界訳聖書では、「今日」の位置が違っているため、文意にも違いが生じています。これは、聖書原典に句読点が無いことに起因する相違であるようです。
 新約聖書はギリシャ語で書かれましたが、当時のギリシャ語には小文字がなく、さらに、単語と単語の間のスペースや句読点もありませんでした。



○ ギリシャ語原典の表記の問題

すべて大文字で綴られている
単語と単語の間にスペースがない
句読点が(ほとんど)ない



 これではあまりに読みにくいということで、聖書原典に対する種々の調整が行われるようになりました。現在原典であるとされるテキストのほとんどはこのような調整が施されたものです。
 こうして、同じ聖書原典から、句読点の置き方の異なる校訂本文が生まれました。そのため、聖書協会連盟の校訂本文とネストレ・アーラントの校訂本文とは、聖書本文は同じでも句読点の位置が異なります。また、ネストレ・アーラントの校訂本文は版によって句読点の位置が変わります。
 ネストレ・アーラントの26版以降は句読点の扱いが優秀だそうです。これまで、ギリシャ語聖書の校訂本文の句読点は英語などの代表的なヨーロッパ言語の感覚に合わせてつけられていました。ネストレ・アーラントは26版になってようやくそれを改訂し、句読点の位置が聖書ギリシャ語的になるよう調整したそうです。
 もっとも、聖書ギリシャ語にはもともと句読点などなかったわけですから、いくら句読点の付け方を工夫しても、問題は残るそうです。



◇ 「書物としての新約聖書」, 田川建三 (表記修正)

 アメリカ版のギリシャ語のテクスト(聖書協会連盟の校訂本文)では英語流の句読点のつけかたになっており、ネストレの古い版ではドイツ語流の論理でつけられている。アーラントは、二十六版はそのどちらとも違い、ギリシャ語の論理に従った句読点のつけかたになっている、と胸をはっているけれど(序文六頁)。いずれにせよ、大文字写本では、まして原著者の原文では、句読点はまだほとんどまったく存在しなかったのだから、印刷本を読む時には、句読点は現代の学者による解釈だよ、ということを常に意識しておく必要がある。



 ではここで原典を見てみましょう。



ルカ 23:43 原典講読

καὶ εἶπεν αὐτῷ (すると彼は言った)
ἀμήν σοι λέγω (アーメンあなたに告げる)
σήμερον (今日)
μετ᾽ ἐμοῦ ἔσῃ ἐν τῷ παραδείσῳ (私と共に楽園にいる)



 ここは、「今日」の前に句読点を置くか後に置くかによって意味が変わってくるようです。では、どちらに句読点を置くのが適切なのでしょうか。新世界訳聖書は、「句読点は“今日”の後に置くべきだ」と考えているようです。



◇ 「聖書に対する洞察」, 『パラダイス』の項, ものみの塔聖書冊子協会

 この言葉を訳す際に示される句読法は,言うまでもなく翻訳者がイエスの言葉の意味をどう理解するかによって決まるに違いありません。なぜなら,元のギリシャ語本文では句読点が用いられていないからです。現在の形式の句読法が広まったのは西暦9世紀ごろになってからのことです。多くの翻訳は「今日」という言葉が「いるでしょう」にかかるように読点を置き,そのようにして悪行者がその同じ日にパラダイスに入ったという印象を与えていますが,聖書の残りの部分にそれを裏付けるものは何もありません。イエスご自身,死んで3日目までは墓におられ,それから復活の「初穂」として復活させられました。(使徒 10:40; コリ一 15:20; コロ 1:18)イエスが昇天されたのはそれから40日後のことでした。―ヨハ 20:17; 使徒 1:1-3,9。ですから,証拠からすると,イエスが「今日」という言葉を使われたのは悪行者がパラダイスに入る時を示すためではなく,むしろ約束が言われているその時,そして悪行者がイエスに対してある程度の信仰を示したその時に注意を向けるためであったことになります。その日はイエスがご自分の属する民族の最も位の高い宗教指導者たちから退けられて有罪を宣告され,その後ローマの当局により死刑を宣告された日でした。イエスは侮べつとあざけりの的となっていました。ですから,イエスの傍らにいたその悪行者は,群衆に同調せずにむしろ思い切ってイエスのために話し,イエスがやがて行使される王権に対して信仰を言い表わしたという点で,注目すべき特質とほめるべき心の態度を示していました。ロザハムやラムサによる英訳,ラインハルトやW・ミヒャエーリスによるドイツ語訳,および西暦5世紀のシリア語クレトニア写本のような他の翻訳も,力点の置き場所が約束の成就の時ではなく,正確には約束がなされたその時であることを認めて,先に引用した新世界訳の読み方と同様の形にその聖句を訳しています。



 聖書の記述を見ると、イエスは自分が死んで3日後に復活することを語ったりしていますから、この主張にはもっともなところがあるようです。

 キリスト教は一般的には非合理主義であり、話のつじつまを気にしない、もしくは気にしてはならないというところがあります。しかしエホバの証人はこういったことをとても気にかけます。この聖句の問題点に取り組む姿勢はいかにもエホバの証人らしい振る舞いだと言えるでしょう。



○ エホバの証人に特徴的な思想

合理主義
現実主義
実践主義
実証主義



 「ものみの塔」誌『研究用』2018年12月号は、聖書に出てくるこの言い回しが、古代中東では慣用表現であったことを指摘しています。



◇ 「ものみの塔」誌『研究用』2018年12月号, ものみの塔聖書冊子協会

 中東のある聖書翻訳者は,イエスの言葉についてこう述べています。「この文章では『今日』という言葉が強調されており,『今日あなたに真実に言いますが,あなたはわたしと共にパラダイスにいるでしょう』と訳すべきである。イエスの約束はその日に行なわれ,あとで実現することになっていた。これは,特定の日になされた約束が後日必ず果たされることを示す,オリエントの特徴的な言い方である」。5世紀のシリア語訳もイエスの言葉をこう訳しています。「アーメン,わたしは今日なんじに言う,我と共になんじはエデンの園におらん」。






 ◆ パラダイスとは

 ここでイエスの語ったパラダイスとは何でしょうか。聖書はこれについてあまり説明していません。聖書自身、これを詳しく説明することと考えていないようです。



コリント第二 12:2-4

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
わたしはキリストと結ばれたひとりの人を知っています。その人は十四年前に―それが体においてであったかどうかわたしは知りません。体を出てであったかどうかも知りません。神が知っておられます―そのような者として第三の天に連れ去られました。そうです,わたしはそのような人を知っています―それが体においてであったか体を離れてであったか,わたしは知りません。神が知っておられます― その人はパラダイスに連れ去られ,人が話すことを許されず,口に出すことのできない言葉を聞いたのです。



 パラダイスの教えには聖書自身にも記されないほどの重大な秘匿事項が含まれているようです。そのせいか、聖書はパラダイスの教えが存在することについて語りはしますが、説明はしません。
 しかし、パラダイスについてのイエスの言葉のモチーフとなったメシア預言の言葉は特定できますので、そこからある程度の推察が可能であるようです。



イザヤ 51:1-3

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
「義を追い求めている者たちよ,エホバを見いだそうと努めている者たちよ,わたしに聴け。あなた方は自分が切り出された岩を,自分が掘り出された坑のくぼみを思い見よ。あなた方の父アブラハムを,また,子を産む苦しみをもって,しだいにあなた方を産んだサラを思い見よ。わたしが呼んだとき,彼は一人であったが,わたしは彼を祝福し,多くの者としていったからである。エホバは必ずシオンを慰めてくださるからである。そのすべての荒れ廃れた所を必ず慰め,その荒野をエデンのように,その砂漠平原をエホバののようにされる。歓喜と歓びがその中に見いだされるであろう。感謝の表明と調べの声が。



 イエスの「パラダイス(園)」の言葉がメシア預言の「エホバの園」をモチーフとし、さらにメシア預言の「エホバの園」が創世記の「エデンの園」をモチーフとしている様子を見ることができます。ですから、パラダイスについての聖書の教えの実体は、聖書の創世記に記されている失楽園の物語を補完する教え、つまり復楽園の教えであると考えてよいでしょう。
 しかしそこから先の解釈は分かれるところです。エホバの証人は千年王国の教えを支持していますので「これは地上に回復される楽園にほかならない」と言いますが、大多数の教会は千年王国を否定して「これは天国のことである」と言います。



○ パラダイスの実体についての一般的な見解

パラダイスとは天国のことである

○ エホバの証人の反論

パラダイスは千年王国によって回復された地上のことである



 エホバの証人は、千年王国とそのパラダイスに関する教えのせいで「風変わりなキリスト教」と思われることがあります。この教えのせいで「これはキリスト教ではない」と言われることさえあります。パラダイスの実体が何であるかについての一般キリスト教とエホバの証人の間の意見の隔たりは大きく、この教えはエホバの証人がキリスト教諸教会から“異端”呼ばわりされる大きな理由となっているようです。

 聖書によると、この秘密を知ってしまった人には、秘密を守るために神からの呪いがかけられることになっているようです。秘密の啓示を受けた者の一人であるパウロはこのように告白しています。(*この記述は2008年9月(ごろ)に公表されました。)



コリント第二 12:5-10

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
そのような人についてわたしは誇ります。しかし自分自身については,[自分の]弱いところに関する以外には誇りません。たとえわたしが誇りたいと思う場合があるとしても,それによって道理をわきまえない者となるわけではありません。わたしは真実を語るからです。しかしわたしは[それを]控えます。だれも,ただその啓示の過大さのために,わたしについて見るところ,あるいはわたしから聞くところを越えて,わたしのことを高く評価するようなことのないためです。それゆえ,高慢になることのないよう,わたしは肉体に一つのとげを与えられました。それはサタンの使いであって,わたしが高慢にならないよう,わたしに終始平手打ちを加えるためのものです。これについては,それがわたしから離れるよう,わたしは三度主に懇願しました。しかし[主]は,まさにこう言われました。「わたしの過分の親切はあなたに対してすでに十分である。[わたしの]力は弱さのうちに全うされるのである」。それゆえわたしは,自分の弱いところについてむしろ大いに喜んで誇り,こうしてキリストの力が天幕のごとくわたしの上にとどまるようにします。したがって,わたしは弱いところを,侮辱,窮乏,迫害や困難を,キリストのゆえに喜びとするのです。わたしが弱いとき,その時わたしには力があるからです。



 秘密を守るため、パウロには「肉体のとげ」の呪いが課されました。これが具体的に何であるか聖書は示していませんが、それはパウロの外見に問題をもたらすものだったようです。パウロに接する人は、その外見や振る舞いを見て、この人にはサタンの使いつまり悪霊がついているに違いないと思ったようです。また、パウロのことをそのように感じた人が噂を広めたため、パウロに会ったことのない人もパウロのことを悪く思っていたようです。そうするとどうなるでしょうか。この呪いのせいで、秘密を知ってしまった者がうっかりその秘密を漏らしてしまうことがあったとしても、周囲の人々はそれを聞こうとしなかったでしょう。頭のおかしいやつがおかしなことを言っている、無視してしまえ、と考えたことでしょう。
 この呪いの厄介なところは、キリスト教を信じる信者間において有効な呪いだということです。



コリント第二 10:10

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
というのは,「[彼の]手紙は重々しくて力強いが,身をもってそこにいる様は弱々しく,その話し方は卑しむべきものだ」と彼らは言うからです。



 ですから、聖書の教えをよく守る善良な人々の中にいながら、あの人には悪霊がついているに違いないとうわさされ、彼らによって無視されているという人がいれば、もしかするとその人は神からの啓示を受けてそうなっているのかもしれません。

 この呪いの法則は個人に当てはまるものですが、教派単位でもよく当てはまるようです。エホバの証人という、パラダイスの教えを教義として教える唯一のキリスト教派が存在しているからです。このエホバの証人という教派は他のキリスト教派からどう思われているでしょうか。キリスト教諸教会はエホバの証人のことをキリスト教の異端だと言います。ここ100年以上に渡って、キリスト教の諸教会はエホバの証人のことを「人類史上最悪の悪魔の宗教」と呼んできました。キリスト教会に通う方ならこの言い方を聞いたことがあるはずです。また、キリスト教世界の一般信徒のほとんどは、エホバの証人のことをある種の精神障害者集団だと考えています。その結果はどうでしょうか。エホバの証人はパラダイスの教えを語りますが、他教派に属する人々は誰も彼らのことを相手にしません。もしこれがエホバの証人に課された神からの呪いであるとすれば、その呪いは完璧ではないでしょうか。