新世界訳
エホバの証人の聖書

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ヨハネ 1:18

◇ 英語標準訳聖書 (ESV) ◇ (プロテスタント)
No one has ever seen God; the only God (唯一の神), who is at the Father's side, he has made him known.

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
いまだ神を見た人はいない。父に対してその懐[の位置]にいる独り子の神こそ,彼について説明したのである。



 新世界訳聖書では「独り子の神」となっているところ、英語標準訳聖書では「唯一の神」となっています。この問題について考えましょう。

 まずは邦訳聖書を見てみましょう。この句はどのように訳されているでしょうか。



ヨハネ 1:18

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
いまだ神を見た人はいない。父に対してその懐[の位置]にいる独り子の神こそ,彼について説明したのである。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。

◇ 新改訳聖書 [2017年版] ◇ (ファンダメンタル)
いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。



 見たところ、邦訳聖書ではほぼ一律に「独り子の神」の訳が採用されているようです。日本語の聖書でこれ以外の訳を見ることはまずありません。

 今度は英訳聖書を見てみましょう。



ヨハネ 1:18

◇ 英語標準訳聖書 (ESV) ◇ (プロテスタント)
No one has ever seen God; the only God (唯一の神), who is at the Father's side, he has made him known.

◇ 新改訂標準訳聖書 (NewRSV/NRSV) ◇ (プロテスタント)
No one has ever seen God; It is God the only Son (神なる独り息子), who is close to the Father's heart, who has made him known.

◇ ジェームズ王欽定訳聖書 (KJV/AV) ◇ (プロテスタント)
No man hath seen God at any time; the only begotten Son (独り子なる息子), which is in the bosom of the Father, he hath declared him.

◇ 新エルサレム聖書 (NJB) ◇ (カトリック)
No one has ever seen God; it is the only Son (独り息子), who is close to the Father's heart, who has made him known.

◇ 現代英語訳聖書 / 今日の英語訳聖書 (GNT/TEV) ◇ (プロテスタント)
No one has ever seen God. The only Son (独り息子), who is the same as God and is at the Father's side, he has made him known.

◇ 新国際訳聖書 (NIV) ◇ (ファンダメンタル)
No one has ever seen God, but the one and only Son (その方と独り息子), who is himself God andb is in closest relationship with the Father, has made him known.

◇ 新世界訳参照資料付き聖書英語版 (NW/Reference Bible) ◇ (エホバの証人)
No man has seen God at any time; the only-begotten god (独り子の神) who is in the bosom [position] with the Father is the one that has explained him.



 訳し方にいろいろと違いがあることに気づかされます。しかも、「独り子の神」という訳は少数派です。
 “only begotten”という表現は聞き慣れないという方もおられると思います。この表現の文字の意味は「ただ独り産み出された」となりますが、英訳聖書の表現であり、その意味は単に「独り子」です。

 英訳聖書においてこのような訳し方の違いが生じるのはなぜでしょうか。
 一つの理由は写本にあります。聖書の写本の中にはここのところで「神」が省かれているものがあります。「神の子」を意味する“独り子”に“神”という語がつくと、その意味は「神の子である神」という意味になり、筋が通らないように思えます。また、通常なら“息子”か“娘”となるところが“神”となっているのも言語感覚に合いません。それで、だれかがおせっかいをしてこれを削除してしまったものと思われます。



◇ 新世界訳参照資料付き聖書, ヨハネ 1:18, 脚注

「独り子の神」,パピ写75,シナ写c; パピ写66,シナ写*,バチ写,エフ写*,「独り子の神」(冠詞は付いていない); アレ写,エフ写c,古ラ訳,ウル訳,シリ訳ク,ヘ,「独り子」。



 この問題についての結論はすでにはっきりと下されているようです。ほとんどの聖書注解は「神」のあるテキストが正しいテキストであると述べています。邦訳聖書において訳文がそろっている背景にはこの結論の周知が進んでいることがあるようです。

 もう一つの理由は、ここで「独り子」と訳されているギリシャ単語の特性にあります。ここで用いられているギリシャ語モノゲネースには、「息子」が省略可能であるという一般則があります。モノゲネースの後に「息子」か「娘」が続くのが正規の言い方ですが、これが「息子」であり、なおかつ話し手が表現を省略したいと思った場合、モノゲネースは単独で用いられることになります。
 これは、ギリシャ語ではしばしば見られることです。たとえば、聖書には「聖なる者」という表現がたびたび出てきますが、これをギリシャ語で見ると単に「聖なる」です。「聖なる」の後に続く語は基本的に「人」であり省略可能であるという暗黙の了解があるからです。しかし、天使のことを「聖なる使い」と呼ぶ場合や、神の霊のことを「聖なる霊」と呼ぶなどの場合には、「使い」や「霊」といった語を使うことになります。

 モノゲネースの聖書の用法を実際に見てみましょう。



ルカ 7:12 原典

ὡς δὲ ἤγγισεν τῇ πύλῃ τῆς πόλεως, καὶ ἰδοὺ ἐξεκομίζετο τεθνηκὼς μονογενὴς υἱὸς (独り子+息子) τῇ μητρὶ αὐτοῦ, καὶ αὐτὴ ἦν χήρα, καὶ ὄχλος τῆς πόλεως ἱκανὸς ἦν σὺν αὐτῇ.

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
彼がその都市の門に近づくと,何と,見よ,死人が運び出されて来るところであった。それは,その母の独り息子であった。そのうえ,彼女はやもめだったのである。その都市のかなり多くの人々も彼女と一緒にいた。

ルカ 8:42 原典

ὅτι θυγάτηρ μονογενὴς (独り子+娘) ἦν αὐτῷ ὡς ἐτῶν δώδεκα καὶ αὐτὴ ἀπέθνησκεν. Ἐν δὲ τῷ ὑπάγειν αὐτὸν οἱ ὄχλοι συνέπνιγον αὐτόν.

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
彼には十二歳ほどになる独り娘がおり,その[娘]が死にそうになっていたからである。 [イエス]が進んで行かれると,群衆がそのまわりに群がった。

ルカ 9:38 原典

καὶ ἰδοὺ ἀνὴρ ἀπὸ τοῦ ὄχλου ἐβόησεν λέγων Διδάσκαλε, δέομαί σου ἐπιβλέψαι ἐπὶ τὸν υἱόν μου, ὅτι μονογενής (独り子) μοί ἐστιν,

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
そして,見よ,群衆の中からひとりの男が叫んでこう言った。「師よ,私の息子をひと目見てやってください。私の独り息子ですのに,

ヨハネ 1:14 原典

Καὶ ὁ λόγος σὰρξ ἐγένετο καὶ ἐσκήνωσεν ἐν ἡμῖν, καὶ ἐθεασάμεθα τὴν δόξαν αὐτοῦ, δόξαν ὡς μονογενοῦς (独り子) παρὰ πατρός, πλήρης χάριτος καὶ ἀληθείας·

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
こうして,言葉は肉体となってわたしたちの間に宿り,わたしたちはその栄光,父の独り子が持つような栄光を目にしたのである。彼は過分の親切と真理とに満ちていた。

ヨハネ 1:18 原典

θεὸν οὐδεὶς ἑώρακεν πώποτε· μονογενὴς θεὸς (独り子+神) ὁ ὢν εἰς τὸν κόλπον τοῦ πατρὸς ἐκεῖνος ἐξηγήσατο.

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
いまだ神を見た人はいない。父に対してその懐[の位置]にいる独り子の神こそ,彼について説明したのである。

ヨハネ 3:16 原典

Οὕτως γὰρ ἠγάπησεν ὁ θεὸς τὸν κόσμον ὥστε τὸν υἱὸν τὸν μονογενῆ (独り子+息子) ἔδωκεν, ἵνα πᾶς ὁ πιστεύων εἰς αὐτὸν μὴ ἀπόληται ἀλλὰ ἔχῃ ζωὴν αἰώνιον.

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
「というのは,神は世を深く愛してご自分の独り子を与え,だれでも彼に信仰を働かせる者が滅ぼされないで,永遠の命を持てるようにされたからです。

ヨハネ 3:18 原典

ὁ πιστεύων εἰς αὐτὸν οὐ κρίνεται. ὁ μὴ πιστεύων ἤδη κέκριται, ὅτι μὴ πεπίστευκεν εἰς τὸ ὄνομα τοῦ μονογενοῦς υἱοῦ (独り子+息子) τοῦ θεοῦ.

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
彼に信仰を働かせる者は裁かれません。信仰を働かせない者はすでに裁かれています。その人は,神の独り子の名に信仰を働かせていないからです。

ヘブライ 11:17 原典

Πίστει προσενήνοχεν Ἀβραὰμ τὸν Ἰσαὰκ πειραζόμενος, καὶ τὸν μονογενῆ (独り子) προσέφερεν ὁ τὰς ἐπαγγελίας ἀναδεξάμενος,

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
信仰によって,アブラハムは,試された時,イサクをささげたも同然でした。約束を喜びのもとに受けた人が,[自分の]独り[子]をささげようとしたのです。

ヨハネ第一 4:9 原典

ἐν τούτῳ ἐφανερώθη ἡ ἀγάπη τοῦ θεοῦ ἐν ἡμῖν, ὅτι τὸν υἱὸν αὐτοῦ τὸν μονογενῆ (独り子+息子) ἀπέσταλκεν ὁ θεὸς εἰς τὸν κόσμον ἵνα ζήσωμεν δι' αὐτοῦ.

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
わたしたちの場合,これによって神の愛が明らかにされました。すなわち,神はご自分の独り子を世に遣わし,彼によってわたしたちが命を得られるようにしてくださったからです。



 省略があったりなかったりしていることが見て取れます。

 ヨハネ 1:18の“独り子の神”という表現は、文法理論上は『神には親子というものがあり、イエスは子のほうである』ということを述べているように見えます。

 日本語を使う方はヨハネ 1:18の表現の理解の仕方に注意が必要です。「独り子の神」と訳出されていますから、多くの方は、これは“独り子”に“神”がくっついた表現であると考えられると思います。実際、私もそういう言い方をします。しかし、そういう捉え方は厳密ではないようです。この表現は、通常“息子”か“娘”が入るところに“神”が入っている表現であるというのが正しい認識のようです。

 新改訂標準訳聖書の「神なる独り子」という訳はそのへんのところを無視してしまったもののようです。これには三位一体の教理がからんでいるようです。



◇ 「聖書に対する洞察」, 『独り子』の項, ものみの塔聖書冊子協会

 三位一体論の「子なる神」という概念を支持する幾つかの翻訳は,この句,モノゲネース テオスの語順を逆にして,「神なる独り子」と訳出しています。しかし,W・J・ヒッキは新約聖書希英辞典(1956年,123ページ)の中で,それらの翻訳者がどうしてモノゲネース ヒュイオスを「ただ一人もうけられた子,あるいは独り子」と訳出しながらモノゲネース テオスを「ただ一人もうけられた神」ではなく「神なる独り子」と訳すのか理解に苦しむと述べています。



 ここまで理解したところで、いよいよ問題となるのが英語標準訳聖書です。

 ギリシャ語モノゲネースには上に述べたような特性があります。さて、この語を英語に翻訳するに際し、1. 省略のない形を基準にし、2. それに“only son”の訳語を充てるという方針を決定した場合、不思議なことが生じます。“独り子の神”というギリシャ語の表現は、英語で“son”に相当する部分が“God”になっているわけですから、規則に従って訳語を選択すると、その訳は“only God”になります。

 このような訳し方は、昔からファンダメンタルによって提唱されていましたが、その手続きがまるっきし詐欺であることから、これまではほとんど無視されていました。英語標準訳聖書のような主要な聖書がこれを採用したことはかなりの事件です。やはり三位一体論の影響があるものと思われます。






◆ 懐の位置

 おまけです。ヨハネ 1:18にある「懐の位置」という表現は誤解されることの多い表現ですので、翻訳の話から離れて、すこしこれを解説したいと思います。(*この記述は2017年11月25日に公表されました。)

 あなたは、誰かが懐の位置にいるというような表現を聞くと、どのような場面を思うでしょうか。おそらく、親が乳児を胸元に抱えている場面や、親が子供を自分の膝に座らせている場面を想像すると思います。ところが、聖書のこの表現は慣用句で、異なる意味があります。この表現の正しい意味は「二番目に偉い」です。
 例えば、どこかの国の王が王座に座しているところを想像してください。その右には王子が、左には大臣が座っています。王子はナンバー2で大臣はナンバー3です。このナンバー2の座席を得ることを指してこのような表現や類似の表現が使われました。また、ナンバー2の座に就いた者は、「(主人に)愛される者」などと言われることがありました。

 こういった言い回しの由来となったのが、当時の会食の形式です。
 ここで言う会食とは、お金持ちや支配者が行う食事のことを指します。当時の会食は、丈の低いテーブルをコの字に組んで行われました。この形にテーブルを組むと給仕の係が仕事をしやすかったからです。テーブルには寝椅子が据えられ、人は寝椅子に寝転んで食事をしました。
 この時、順位というものが参加者の席の位置を決めることになります。ここでは、主人の席が給仕係から見て右端である場合を考えてみましょう。主人から見て右の席はナンバー2の席です。その右の席はナンバー3、さらに右はナンバー4です。こうして順位に従って参加者は並んでいきます。その結果、給仕から見て一番左の席につく人が一番地位の低い人ということになります。



◇ 「聖書に対する洞察」, 『懐の位置』の項, ものみの塔聖書冊子協会

 「懐の位置」という表現は,食事の際に同じ寝いすの上で別の人の前に横になることを暗示しています。
 客は左わきを下にして横になり,まくらで左ひじを支えたので,右腕は自由になりました。……後ろにだれもいない人は一番地位の高い人,その前の人は二番目に誉れを受ける人とみなされました。……宴会の時にある人の懐の位置にいるということは,まさにその人の好意を得た特別な場所を占めていることを意味しました。



 聖書には、弟子たちの間にこのことに由来する深刻な問題があったことが示唆されています。



マルコ 9:33-37

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
それから彼らはカペルナウムに入った。さて,家の中におられた時,[イエス]は彼らにこう質問された。「あなた方は途中で何を議論していたのですか」。彼らは黙っていた。途中で彼らは,だれのほうが偉いかと,互いに議論したからであった。そこで[イエス]は腰を下ろし,十二人を呼んでこう言われた。「第一でありたいと思うなら,その人はみんなの最後となり,すべての者の奉仕者とならなければなりません」。そして,ひとりの幼子を連れて来て彼らの真ん中に立たせ,両腕をその[子]にかけて,彼らにこう言われた。「だれでも,わたしの名によってこのような幼子一人を迎える者はわたしを迎えるのです。そして,だれでもわたしを迎える者は,わたしだけでなく,わたしを遣わした方をも迎えるのです」。



 聖書には同じような話が複数記されており、弟子たちが頻繁に地位を争っていたことがほのめかされています。
 謙遜さを説くイエスの教えにも関わらず、なぜ弟子たちはこのような争いを繰り返したのでしょうか。おそらくですが、会食が引き金になっていました。イエスと弟子たちは行く先々で様々な人から食事を提供されました。裕福な人から食事の提供を受けると、それは会食の形式になりました。そうすると、イエスは端の位置につき、弟子たちは並ばなければなりません。ところが、弟子たちが地位をめぐって争ったことからもわかるように、イエスは弟子たちの順位を決めませんでした。つまり、弟子たちは会食が行われるたびに、自分の席はどこかということを考えなければならなかったのです。イエスの隣につくことができれば気分がよかったでしょう。しかし、その反対側の端につくことになったら不愉快だったでしょう。こうして、よい席をめぐる弟子たちのつばぜり合いが生じたものと思われます。

 ところでイエスはこのようなたとえを語っています。



ルカ 14:7-11

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
それから[イエス]は,招かれてそこに来ていた人々にひとつの例えを話された。彼らが,最も目立つ場所を自分のために選ぶ様子に目を留められたからであり,こう言われた。「だれかから婚宴に招かれたなら,最も目立つ場所に横たわってはなりません。もしかすると,だれかあなたより主立った人がそのとき招かれているかもしれず,その場合,あなたやその人を招いた人が来て,『この人にその場所を譲ってください』と言うでしょう。そうすると,あなたは恥ずかしい思いをしながら,そこを立って最も低い場所に着くことになるのです。むしろ,あなたが招かれたときには,行って,最も低い場所で横になり,あなたを招いた人が来て,『友よ,もっと高いほうへ進んでください』と言うようにしなさい。そうするとあなたは,一緒にいるすべての客の前で誉れを受けることになるのです。だれでも自分を高める者は低くされ,自分を低くする者は高められるのです」。



 会食の習慣を正しく理解しているなら、たとえの意味は明瞭です。これは右側か左側かという話です。

 いわゆる最後の晩餐にかかわる記述は要注意です。



ヨハネ 13:23-25

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
イエスの懐の前に弟子の一人が横になっており,イエスはこれを愛しておられた。それゆえ,シモン・ペテロはこの者にうなずいて合図をしながら言った,「だれのことを言っておられるのか話しなさい」。それで,その者はイエスの胸もとにそり返って言った,「主よ,それはだれですか」。



 このときイエスの右にいたのはヨハネです。「イエスはこれを愛しておられた」とあるので、イエスが弟子たちの中で特にヨハネをひいきにしていたということが言われています。しかし私見では、おそらくこの表現はそういう意味ではなく、「ヨハネは二番目の席を独占していた」という意味であると思われます。
 「胸もとにそり返って」という表現も誤解されやすい表現ですが、単に「顔を向けて」の意味です。

 この表現は後の記述の布石になっているようです。



ヨハネ 19:26

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
それでイエスは,自分の母と,自分の愛する弟子がそばに立っているのをご覧になり,母にこう言われた。「婦人よ,見なさい,あなたの子です!」

ヨハネ 20:2

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
それで彼女は,シモン・ペテロ,そしてもう一方の弟子でイエスが愛情を持っておられた者のところに走って来て,こう言った。「人々が主を記念の墓から取り去ってしまい,どこに置いたのか分かりません」。

ヨハネ 21:7

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
それゆえ,イエスが愛しておられたかの弟子が,「主だ!」とペテロに言った。それでシモン・ペテロは,それが主だと聞くと,裸だったので自分の上っ張りをまとい,海に飛び込んだ。

ヨハネ 21:20

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
ペテロが振り向くと,イエスが愛しておられた弟子で,晩さんの折にもその胸もとにそり返って,「主よ,あなたを裏切るのはだれですか」と言った者があとから付いて来るのが見えた。



 ここで念頭に置きたいのは、ヨハネは自分の書いた福音書の中に自分の名前を出すのを嫌がったという点です。そのためのトリックとして席順にかかわる表現が流用されたようです。つまり、これらの表現は「あの最後の晩餐の日にイエスの右の席にいた弟子が」という意味で用いられていて、イエスがヨハネを特別に愛したかというようなことは関係ないようです。