新世界訳
エホバの証人の聖書

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ヨハネ 8:58

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
イエスは彼らに言われた、「きわめて真実にあなた方に言いますが、アブラハムが存在する前からわたしはいるのです」。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』



 新共同訳聖書では“『わたしはある。』”となっているところが、新世界訳聖書では“わたしはいるのです”となっています。
 新共同訳聖書は三位一体論を支持していますから、この表現はイエスがエホバであることを示す称号である、と考えたようです。三位一体論を支持しない新世界訳聖書はそう考えなかったようです。

 他の主要な聖書はここをどう訳出しているでしょうか。



ヨハネ 8:58

◇ 新改訳聖書 [第三版] ◇ (ファンダメンタル)
イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」

◇ 口語訳聖書 ◇ (プロテスタント)
イエスは彼らに言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。アブラハムの生れる前からわたしは、いるのである」。



 見たところ、主要な邦訳聖書では新共同訳聖書のような読み方は支持されていないようです。

 新共同訳聖書が他の聖書と異なる訳文を採用したのはなぜでしょうか。これには深い訳があります。
 キリスト教世界では伝統的に三位一体論が支持されています。三位一体論において、ヨハネ 8:58はイエスが神であることの強力な証拠であるとされています。それは、旧約聖書においてエホバが自分のことをこのように紹介しているからです。



出エジプト 3:14

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
神はモーセに、「わたしはあるわたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」



 ですから、たとえば英訳聖書を見てみると、出エジプト 3:14とヨハネ 8:58とで表現が同じになるように訳文を工夫することが行われています。



出エジプト 3:14

◇ 英語標準訳聖書 (ESV) ◇ (プロテスタント)
God said to Moses, "I AM WHO I AM." And he said "Say this to the people of Israel, 'I AM has sent me to you.'"

ヨハネ 8:58

◇ 英語標準訳聖書 (ESV) ◇ (プロテスタント)
Jesus said to them, "Truly, tlury, I say to you, before Abraham was, I am."



 そうするとどうでしょうか。世界中の聖書がイエスは神であるということが明瞭になる訳出を行っているのに、日本語訳の聖書だけそうしていないというのはおかしなことではないか、これはぜひとも是正すべきだ、ということになります。
 これは昔から諸教会によって強く言われていたことで、新共同訳聖書の刊行によってようやく問題が解決されたという格好です。

 それにしても、どうして邦訳聖書ではこのような非三位一体論的な訳文が採用されてきたのでしょうか。
 この問題の背景には、英訳聖書に見られるような訳文の一致は一種のトリックであり、そのトリックは日本語に移植しづらい、という認識があるようです。
 特に問題となるのはヨハネ 8:58のほうです。英語標準訳聖書の訳文は“before Abraham was, I am.”となっています。この表現の意味は「アブラハムが生まれる前から私はいる」という意味です。“I am”は主語と動詞であり、称号ではありません。これはギリシャ語原典においても同様です。英訳聖書において行われているのは、称号ではない表現を称号であるようにも読めるように工夫しよう、ということです。称号に読めるように工夫しましたが、それでも称号にはなっていないのです。これを称号にするなら、たとえば“I am the ‘I AM’”というような訳文が必要ですが、このような訳文にすると訳文が原典とかけ離れてしまいます。そこで、三位一体論者たちはこのように主張することになります。



○ 称号“I AM”についてのファンダメンタルな論法

「神を説明する出エジプト 3:14には称号“I AM”が用いられている。」
「ところでイエスを説明するヨハネ 8:58には出エジプト 3:14と同じ表現が用いられている。」

「イエスはここで、自身が“I AM”という称号で呼ばれる者であることを示したのだ。」
「よって、イエスは神である。」



 このトリックを日本語聖書に移植するとなるとどうでしょうか。この句の訳業における神学上の要求は、「称号ではないものを称号にも読めるように訳さねばならないが、だからといってそれを称号にしてしまってはならない」というものです。そのような訳文を組み立てることは可能ですが、そのためには、「わたしはいる」という表現の部分を「わたしはある」に変えなければなりません。そうすると今度は、できあがった訳文が不自然になって、トリックがあからさまになってしまうという問題が生じます。
 こういった事情から、邦訳聖書においては、トリックの一切ない原典どおりの訳文が採用されてきたようです。
 それに対して、新共同訳聖書はあからさまです。この際この訳文は不自然であってもかまわないし、称号になってしまってもかまわない、と新共同訳の翻訳者たちは考えたようです。ですから、新共同訳聖書におけるヨハネ 8:58の訳文はファンダメンタルな訳文であると言うことができるでしょう。

 今度は英訳文について比較を行ってみましょう。



ヨハネ 8:58

◇ 新世界訳参照資料付き聖書英語版 (NW/Reference Bible) ◇ (エホバの証人)
Jesus said to them: “Most truly I say to YOU, Before Abraham came into existence, I have been.”

◇ 英語標準訳聖書 (ESV) ◇ (プロテスタント)
Jesus said to them, "Truly, tlury, I say to you, before Abraham was, I am."



 新世界訳聖書では“I have been”という表現になっています。これでは、肝心のトリックが使えません。
 エホバの証人は三位一体論を否定していますので、それでも一向にかまわないようです。



○ 三位一体論の論理

『イエスは神の子であり、神ご自身でもある』

○ エホバの証人の反論

『イエスは神の子であり、神ご自身ではない』



 キリスト教諸教会は、新世界訳聖書の訳文に激しく反発しています。そしてこのように述べてエホバの証人を批判しています。



○ 新世界訳聖書におけるヨハネ 8:58の訳文についてのキリスト教世界の批評

「エホバの証人は反キリストであり、正しいキリスト教の教えである三位一体の教えを認めたくないので、そんな自分たちにとって都合が悪い聖書の言葉を改竄したのだ。」

「聖書のこの箇所を原典で調べると、εγω ειμι (エゴー エイミ)という言葉が用いられている。この言葉の意味は“I am”である。これを“I have been”と訳すということはまったく考えられない。」



 “εγω ειμι (エゴー エイミ)”が“I have been”とは訳せないというのはほんとうでしょうか。そのようなことは全くないようです。ギリシャ語には、進行していない現在形の表現と進行中の現在形の表現とに区別がないという問題があります。そのため、εγω ειμι は“I am”と“I have been”の両方の意味を持っています。この区別は、文脈を見て判断するしかありません。



◇ 「新約聖書ギリシャ語原典入門」, J・G・メイチェン

 現在時制においては、ギリシャ語では、「私は解く」と、「私は解いている」との区別がない。前者の「私は解く」は単に動作が現在行われていることを示し、後者の「私は解いている」はその動作が継続していることに注目している。



 こういった問題は、たとえば英語の“I have been”にもあります。英語には、『I have + 過去分詞』の文に完了と継続の両方のニュアンスがあるという問題があります。前者の場合は「私は……をし終えた」とか「私は……をしたことがある」という意味になりますが、後者の場合だと、「私は……をずっとしている」という意味になります。この区別も、文脈を見て判断するしかありません。

 この点について、参照資料付き新世界訳聖書の付録はこのように説明しています。



◇ 参照資料付き新世界訳聖書, 付録, 「イエス―アブラハムが存在する前からいる」 (表記修正)

 ヨハネ 8:58で言い表わされている行為は,「アブラハムが存在する前」に始まり,今でも依然として進行状態にあります。このような状況のもとでは,一人称単数,直接法現在形の ειμι(エイミ)は直接法完了形に訳すのが適切です。これと同じ構文は,ルカ 2:48; 13:7; 15:29; ヨハネ 5:6; 14:9; 15:27; 使徒 15:21; コリント第二 12:19; ヨハネ第一 3:8にも見られます。
 この構文について,「新約聖書の慣用句に関する文法」(A Grammar of the Idiom of the New Testament,G・B・ウイナー著,第7版,アンドーバー,1897年,267ページ)はこう述べています。「時として,現在形が過去時制をも含むことがある。(Mdv.108)例えば,その時点より前から始まり,依然として続いている状態をその動詞が表わしている場合―次の例に示される継続状態:ヨハネ 15:27 ……,8:58」。
 同様に,「新約聖書ギリシャ語文法」(A Grammar of New Testament Greek,J・H・モールトン著,第3巻,ニゲル・ターナー,英国,エディンバラ,1963年,62ページ)は次のように述べています。「ある行為が過去に生じ,論じられているその時点に至るまで継続していることを表わす現在形は,実質的に完了相と同じである。ただ一つ違っているのは,その行為が依然として継続状態にあるとみなされていることである。……新約においてこのような例は多く見られる: ルカ 2:48,13:7……15:29……ヨハネ 5:6,8:58……」。



 εγω ειμι という表現は「アブラハムが存在する前から」という表現とつながっていますから、継続のニュアンスが生じます。ここは“I have been”と訳すほうが文法論上は正しいようです。

 この句において継続のニュアンスは絶対的に生じるのでしょうか。そうだとしたらここは“I have been”と訳すしかないということになり、新世界訳聖書以外の英訳聖書はみな間違っているということになってしまいます。
 この問題を解決するために提出された反論に、「この句における εγω ειμι は歴史的現在である」というものがあるようです。「歴史的現在」とは何でしょうか。これは、過去のことを語るのに過去形ではなくあえて現在形を用いるという表現法です。もし、この句が歴史的現在の表現であるとするなら、その正しい意味は「アブラハムが存在する前にはわたしはいたのです」というものになります。歴史的現在として語られる εγω ειμι は過去のある時点における仮定の現在を示しているに過ぎませんので、現在まで継続するとか、今も進行中であるといった意味を持ちません。これが歴史的現在の表現であるなら、その厳密な訳出は“I am”となるようです。“I have been”の訳は歴史的現在の修正であるということになります。

 この反対論については、エホバの証人側がそれに反応してさらなる反論を提出したために、話がややこしくなっているようです。これについてはあとで取り上げたいと思います。

 続いて、出エジプト 3:14も見てみましょう。



出エジプト 3:14

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
すると神はモーセに言われた,「わたしは自分がなるところのものとなる」。そしてさらに言われた,「あなたはイスラエルの子らにこう言うように。『わたしはなるという方がわたしをあなた方のもとに遣わされた』」。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
神はモーセに、「わたしはあるわたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」



 新共同訳聖書では「『わたしはある』」となっているところ、新世界訳聖書では「わたしはなる」となっています。
 ここは文法的にどちらにも訳せるようです。しかし、ここではヨハネ 5:58と訳文を合わせることが重視されていますので、ほとんどの場合、「わたしはある」の訳文が採用されます。
 どちらの意味が正しいのでしょうか。イエスが神であることを証明することにこだわらなければ、いくつかの理由により、新世界訳聖書の訳のほうが優勢となるようです。
 エホバの証人は「わたしはなる」という読みを支持しており、このように述べています。



◇ 「聖書に対する洞察」, 『エホバ』の項, ものみの塔聖書冊子協会

 神の答えはヘブライ語では,エフエ アシェル エフエでした。中には,この言葉を「わたしは,『わたしはある』という者である」と訳出した翻訳もあります。しかし,エフエという言葉はハーヤーというヘブライ語動詞に由来していますが,そのハーヤーという言葉は単に「ある」という意味ではないことに注目しなければなりません。むしろ,それは「なる」,「であることを示す」という意味です。ここで言及されているのは神の自存ではなく,神が他者に対してどのような者になることを意図しておられるかという点です。ですから,新世界訳は上記のヘブライ語表現を「わたしは自分がなるところのものとなる」と正しく訳出しています。その後,エホバは,「あなたはイスラエルの子らにこう言うように。『わたしはなるという方がわたしをあなた方のもとに遣わされた』」と付け加えられました。



 ここでは「なる」のほかに「である」という意味も挙げられています。この場合の「である」は、「なる」のステップに続く結果のステップという意味合いがあって、「なる」の意味に属します。わかりやすく言うと、「この場合の“である”とは“何かが何かになった状態である”という意味だ」ということです。それに対して「ある」は、何かが存在していることについて述べているに過ぎません。日本語では「ある」と「である」の綴りが似ているため、この二つが同じカテゴリに属すると勘違いされる方がたくさんおられますので注意してください。



○ 出エジプト 3:14におけるエフエの意味の分類

「なる」の文意のグループ : 「なる」, 「である」

「ある」の文意のグループ : 「ある」, 「存在する」



 新世界訳聖書で採用されている「わたしはなる」の読みは、キリスト教世界の伝統的な価値観からすると、三位一体論を否定する異端的な読みとなるようです。しかし、この読みには神学的な裏づけが豊富ですので、反三位一体論に位置づけられながらも、さまざまなところで肯定的に扱われています。
 たいていは注釈書等で別訳として解説されることになりますが、新世界訳聖書と同じように聖書の訳文に採用された例もあります。



出エジプト 3:14

◇ 岩波訳聖書 (旧約聖書翻訳委員会訳聖書) ◇ (エキュメニカル)
神はモーセに言った、「わたしはなるわたしがなるものに」。彼は言った、「あなたはイスラエルの子らにこう言いなさい、『「わたしはなる」が私をあなたたちに遣わした』と」。



◇ 岩波訳聖書 (旧約聖書翻訳委員会訳聖書), 出エジプト 3:14 脚注

この文は、構造がまれで、難解なので、古来さまざまに解釈され、訳されている。関係文と主文の中に同じ動詞が繰り返されるという同様の構文(三三19、エゼ一二25)を参考に、こう訳した。



 他の主要な聖書はここをどう訳出しているでしょうか。



出エジプト 3:14

◇ 新改訳聖書 [第三版] ◇ (ファンダメンタル)
神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた』と。」

◇ 口語訳聖書 ◇ (プロテスタント)
神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者」。また言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい、『「わたしは有る」というかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と」。



 ここですこし気になるのは、たとえば新改訳聖書で「わたしは、『わたしはある』という者である。」という具合に一文にして訳されているところが、新共同訳聖書では「わたしはある。わたしはあるという者だ」というふうに2つの文に分割されている点です。しかも、最後の「だ」は「である」の意味ですから、まるで、聖書原典においては同じ単語が2つではなく3つ使われているかのような訳文です。
 新共同訳聖書は、ヨハネ 5:58におけるトリックを後押しするために、英訳聖書の“I AM WHO I AM”に追従して、「わたしはある」という表現を2度繰り返そうとしたようです。新共同訳聖書は、εγω ειμι に関する限り、先に述べたような「文法だとか神学だとかいうことはこの際どうだって構わない」路線を邁進しています。この点は ヨハネ 8:24 の項でいくつも取り上げているとおりで、実に大胆です。暴走していると言ってもかまわないかもしれません。それに対して、新改訳聖書や口語訳聖書の訳はいたって普通であるようです。

 出エジプト 3:14については、ギリシャ語七十人訳聖書(セプトゥアギンタ訳聖書)における εγω ειμι がしばしば取り上げられます。今度はこれを見てみましょう。



出エジプト 3:14

◇ セプトゥアギンタ (七十人訳/LXX) ◇ (ユダヤ)
καὶ εἶπεν ὁ θεὸς πρὸς Μωυσῆν ἐγώ εἰμι ὁ ὤν καὶ εἶπεν οὕτως ἐρεῖς τοῖς υἱοῖς Ισραηλ ὁ ὢν ἀπέσταλκέν με πρὸς ὑμᾶς



 ここで注目しなければならないのは“εγω ειμι ο ων(エゴー エイミ ホ オーン)”となっているところです。これは、たとえば新世界訳聖書では“「わたしは自分がなるところのものとなる」。”となっているところです
 これまで見てきたとおり、聖書翻訳の世界では、ヨハネ 5:58と出エジプト 3:14の訳出においては“I am”という訳語が一致するというトリックが重視されています。しかしそれは翻訳された聖書においてのことであり、原典においてというわけではありません。聖書原典を見ると、ヨハネの聖句はギリシャ語で、出エジプトの聖句はヘブライ語で書かれていますから、両者が同じ綴りであるというようなことをただちには言えません。そこで注目されたのがセプトゥアギンタ訳聖書です。
 セプトゥアギンタ訳は新約聖書が書かれた時代に普及していた訳本です。これは訳本でありながらも聖典と同等であるとみなされていました。この訳本に εγω ειμι の表記があることは大きな意味を持ちます。
 ところがここで問題となるのは、セプトゥアギンタの出エジプト 3:14において、称号となるのは εγω ειμι (エゴー エイミ)ではなく ο ων (ホ オーン)であるということです。εγω ειμι は単に主語と動詞です。たとえば次のような英文を考えてください。“I am the King.”この場合の“I am”は主語と動詞で、称号となるのは“the King”です。εγω ειμι ο ων の構文もこれと全く同じです。
 これをわかりやすく示している訳があります。



出エジプト 3:14

◇ 秦剛平訳七十人訳ギリシア語聖書 ◇
神はモーセに向かって、「わたしはホ・オーンである」と言った。神はさらに言った。「イスラエルの子らにはこう告げよ。『ホ・オーンが、わたしをおまえたちのもとに遣わした』と。」



 これは、ギリシャ語セプトゥアギンタ訳聖書を日本語に訳したものです。翻訳者は、出エジプト 3:14を訳出するにあたって、どの部分が称号でありどの部分がそうでないかを明示するために、あえて称号の部分を音訳しました。その結果、いまここで論じている内容がわかりやすい訳となっています。セプトゥアギンタにおける εγω ειμι は、この訳文における「わたしは」と「である」に対応します。

 このことは、非常にややこしい問題を生じさせているようです。もともとの目的を言えば、ヨハネ 8:58の εγω ειμι は称号であるべきというファンダメンタルな命題が基礎として据えられています。そこで、セプトゥアギンタ訳で用いられている εγω ειμι がこれに対応しているからそれは称号なのであるという主張が提出され、これにより証明は果たされたとされているのです。ところが、セプトゥアギンタにおいて称号である部分に相当するのは ο ων です。このようですと、命題を達成したように見える主張も、実際には命題をみごとに否定しているということになってしまいます。
 では、この問題はどうすればよいのでしょうか。

 ひとつには、すでに挙げたように、セプトゥアギンタのことは触れずに英訳聖書や新共同訳聖書のような聖書を用いるという方法が採れます。また、やはりセプトゥアギンタのことには触れずにヘブライ語の原典に注目して両者の関係を説くという方法もあります。しかし、セプトゥアギンタを用いることにした場合、セプトゥアギンタにおける称号は ο ων であると正しく説明したうえで、この ο ων が命題の εγω ειμι に対応していると述べる方法があります。

 出エジプト 3:14の ο ων (ホ オーン)がヨハネ 8:58の εγω ειμι (エゴー エイミ)に対応しているということは言えるのでしょうか。これは、ヨハネ 8:58の εγω ειμι が称号ではないという問題を放置すれば、可能であるようです。この場合、ο ωνεγω ειμι が文法規則にしたがって変化したものと考えることができます。英語にたとえるなら、“I am the King”の“I am”は、条件によって“You are”や“I was”に変化するという具合です。

 しかし、ここでひとつ解決しておかなければならない課題があります。称号というものは果たして変化するのか、という疑問です。
 ある王が“Shining Sun”つまり「輝く太陽」という称号で呼ばれるとしましょう。この王が死んだら、その称号は「輝かなくなった太陽」とか「沈んだ太陽」というように変化するでしょうか。普通、そういうことは起こらないはずです。“I am”が称号である場合はどうでしょうか。これは自分が述べるときは“I am”なのに他人が述べるときは“He is”になるのでしょうか。これも普通は考えられません。
 ところが、ややこしいことに、ギリシャ語はこの点における例外であるようです。
 たとえば、「イエス・キリスト」という表現に注目してみましょう。「イエス」は人名、「キリスト」は称号です。



コリント第一 3:11 原典

θεμέλιον γὰρ ἄλλον οὐδεὶς δύναται θεῖναι παρὰ τὸν κείμενον, ὅς ἐστιν Ἰησοῦς Χριστός·

ガラテア 1:3 原典

χάρις ὑμῖν καὶ εἰρήνη ἀπὸ θεοῦ πατρὸς ἡμῶν καὶ κυρίου Ἰησοῦ Χριστοῦ,



 語尾が変化していることに注目してください。ギリシャ語には、たとえそれが人名や称号であっても文法規則にしたがって変化してしまう、という変わった特徴があります。ですから、語形が違うということは問題にならないようです。

 一方、 εγω ειμι を称号とみなすという重要な命題をあえて放棄した説明もあります。これは内容がかなり正確で、詐欺的な要素がほとんどありません。ファンダメンタルの神学に特徴的な詐欺的志向を嫌う人はこちらの説明を採るでしょう。これについてはあとで取り上げたいと思います。

 新世界訳聖書のヨハネ8:58の訳文については、それが反三位一体的であるということで、かなりの数の反論が提起されてきました。

 そのうちのひとつは、王国行間逐語訳聖書の逐語訳と新世界訳聖書を比較するというものです。



◇ 「エホバの証人とは」, 『教義 第三部 福音的キリスト教の観点から』の項, JWIC エホバの証人情報センター, 村本治

 ものみの塔はキリストの神性を隠すために、その独特に訳した聖書、新世界訳の中で多くの工夫をこらしています。例えばヨハネの8:58の訳では、ものみの塔自身の発行したギリシャ語行間訳聖書である「ギリシャ語聖書王国行間逐語訳」の中でさえ、ギリシャ語の言葉 "ego eimi" を "I am" (私はいる)と訳しているのに、新世界訳の中では彼らは "I have been" (私はいた)と訳し変えています。



 ギリシャ語王国行間逐語訳聖書とは、聖書原典と新世界訳聖書英語版の比較が容易にできるという聖書で、新世界訳聖書と同じくものみの塔聖書冊子協会から発行されています。
 実際に問題の箇所を見てみましょう。





 原典のところを見てみると、 εγω ειμι には “I am” の訳語がふられています。ところが、それが訳文になったときには“I have been” に変化しています。これは改竄というものではないでしょうか。
 このような指摘は、反対者たちによって多数示されています。どうしてこういうことになるのでしょうか。



◇ 「エホバの証人―神の王国をふれ告げる人々」, ものみの塔聖書冊子協会

 新世界訳聖書翻訳委員会の誠実な努力の一環として,神の言葉を愛する人々がクリスチャン・ギリシャ語聖書のコイネー(共通ギリシャ語)の原文の内容に親しめるようにするため,同委員会は“The Kingdom Interlinear Translation of the Greek Scriptures”(「ギリシャ語聖書 王国行間逐語訳」)を作りました。ものみの塔協会はまず1969年にこれを出版し,1985年に改訂しました。これには,B・F・ウェストコットとF・J・A・ホートが編集した「ギリシャ語原語による新約聖書」が含まれています。ページの右側には「新世界訳」の本文(1984年改訂最新版)が載っています。しかしそれだけではなく,ギリシャ語本文の行間には,もう一つの翻訳,つまり,ギリシャ語が実際に述べている事柄を各語の基本的な意味と文法的な形に応じて訳した極めて字義的な逐語訳が出ています。そのため,ギリシャ語が読めない研究者でさえ,ギリシャ語の原文に実際に書かれている事柄を理解することができます。



◇ 『「クリスチャン・ギリシャ語聖書 新世界訳」に対する論評の一部』, 「目ざめよ!」誌1987年3月22日号, ものみの塔聖書冊子協会

 「これは普通の行間翻訳ではない。本文には全く手を加えておらず,行間の英語はギリシャ語の語句の基本的な意味を示しているにすぎない。……私はこの本を検討してみて,ギリシャ語専攻の,関心を持つ二年生数人の補助教材として採用した。……匿名の委員会によるこの翻訳は,全く最新のもので,一貫して正確である。……要するに,今度エホバの証人が戸口を訪れたなら,古典学者であれ,ギリシャ語の研究者であれ,聖書の研究者であれ,エホバの証人を招き入れ,この本を注文すべきである」―クラシカル・ジャーナル誌,1974年4月,5月合併号に掲載された,「ギリシャ語聖書 王国行間逐語訳」に対するネブラスカ大学,トーマス・N・ウィンターの論評から。



 このように高く評価された点ですが、王国行間逐語訳聖書では、原典の単語の下にはその単語のもっとも基本的な意味がその文脈を無視した形で記載されています。 εγω ειμι の基本的な意味は “I am” ですから、ここでもその特徴は現れています。しかし、これを訳文にするとなると、文脈を考慮して最適な意味を選択しなければなりませんから、すでに論じたとおり、文脈は εγω ειμι が過去からの継続を意味していると示しているということで、 “I have been” の訳語が採用されることになります。

 この反対文書は続けてこのようにも述べています。



◇ 「エホバの証人とは」, 『教義 第三部 福音的キリスト教の観点から』の項, JWIC エホバの証人情報センター, 村本治 (表記修正)

 これに対してものみの塔は様々な理由を上げて来また。例えば最初、彼らはこのギリシャ語は「完了不定時性」をあらわしていると主張しましたが(20)、ギリシャ語には「完了不定時性」は存在しないことを指摘されると、今度は「歴史的現在」であると主張(21)、1963年には今度は「完了時性直説法」であると言い(22)、1969年には「完了時性」とし(23)、1971年には「完了時性直説法」に戻っています(24)。しかし1974年には「歴史的現在」に戻り(25)、1984年になってようやく現行の「直説法完了形」になりました(26)。この「優柔不断」な変節の激しさは、ものみの塔協会の無名の聖書翻訳者と執筆者のギリシャ語の知識の無さによるものです。これはほんの一例で、その他様々な翻訳の誤りが新世界訳では指摘されています。

(20) 新世界訳ギリシャ語聖書 1950 と 1951 版 p312
(21) ものみの塔誌 2/15/1957, p126
(22) 新世界訳聖書, 1963 版, p3108
(23) ギリシャ語聖書王国行間逐語訳 1969 版 p467
(24) 新世界訳聖書, 1971 版 p1121
(25) ものみの塔誌 9/1/1974, p527
(26) 1984 参照資料付き新世界訳聖書 p1582



 同じようなことを指摘している文書はほかにもあります。



◇ 『「新世界訳聖書」は学問的か』, オアシス, 全日本脱カルト研究会 (表記修正)

 新世界訳が学問的でないことはヨハネ8章58節に関する見解を見れば明快である。
 ものみの塔は、イエス・キリストと父なる神との同質性を否定するためにエゴエイミーを、わざわざI have beenと訳出している。

1950年当時はエゴエイミーを完了不定時制としている。しかし、ギリシャ語の時制に完了不定時制という時制は存在しない。忠実で思慮深い奴隷といわれる統治体の提供する霊的食物には多くの霊的毒物が入っていることを明確にしている。
「ものみの塔」誌1957年版2月15日号126頁(英文)「歴史的現在」と解釈。
1963年版「新世界訳」聖書3108頁「完了時制直説法」と解釈。
1969年版 王国行間逐語訳聖書467頁 perfect tense 完了時制との見解に変更。
1971年版 perfect tense indicative 完了時制直説法との1963年の解釈に逆戻り。
「ものみの塔」誌1974年9月1日号527頁(英文)では「歴史的現在」と1957年の見解に逆戻り。
1985年版 王国行間逐語訳聖書 451頁 properly translated by the perfect indicative 完了直説法によって正確に翻訳されたと述べる。
1985年版 参照資料付き聖書1774頁 「直説法完了形に訳するのが適切です。」と述べる。

 ものみの塔の霊的理解は, 進んでいるのか。否, 舵を失った船が同じ所を旋回するようにぐるぐると回っているに過ぎない。
 実にものみの塔は、6回以上もこのヨハネ8章58節の解釈について変更しているのである。



○ ご注意ください

 全日本脱カルト研究会は日本脱カルト協会とは別のものです。



 まずは最初の指摘に注目しましょう。問題となっているのは新世界訳聖書英語版の初版のヨハネ 5:58の脚注です。
 この脚注が述べるような「完了不定時制」がギリシャ語にはないというのはほんとうでしょうか。これはそのとおりです。そのような訳で、この点はさまざまな人々によって繰り返し指摘されてきました。
 たとえば、アンカーバーグ神学研究所の教材「エホバの証人の新世界訳」は、この問題をこのように指摘しています。



◇ The New World Translation of the Jehovah's Witnesses, Ankerberg Theological Research Institute (表記等修正)

 ギリシャ語 ego eimi の適切な訳は、(新世界訳聖書の) “I have been” ではなく “I am” である。……マンティー博士はこう述べている。エホバの証人による “I have been” の訳は間違いである。脚注の述べる“完了不定時制”もまた間違いである。私の知る限り、そのようなギリシャ語文法は存在しないし、そういう陳述もない。事実、新約聖書中において eimi の完了形というものは見られない。



 批判の対象となっている脚注のほうも見てみましょう。



◇ 新世界訳参照資料付き聖書英語版 (NW/Reference Bible) 1950年版, ヨハネ 5:58 脚注

I have been = エゴー エイミ はアオリスト不定詞節……の後にあるゆえに完了不定時制に翻訳されるのが適切である。



 ここで「翻訳」と訳されている語は “render” で、この場合は「解釈」とも訳せます。この脚注は何を言いたいのでしょうか。すでに指摘したとおり、ギリシャ語に完了不定時制というものはありません。しかし、そのことはひとつの可能性を暗示しています。つまり、ギリシャ語に完了不定時制がないということは、その代わりとなって完了不定時制の役割を果たす語法があるはずだ、ということです。
 これは英語にも言えることです。英語に完了不定時制はありませんが、その代用となる語法があるそうです。それは現在完了、つまり今論じているところの “I have been” の形です。そこで、英文法において完了不定時制とは現在完了のことであるとされるようです。
 そこで、新世界訳聖書の脚注は、ヨハネ 5:58の εγω ειμι がギリシャ語には存在しない完了不定時制の代用となっている、ということを言っているようです。

 続いて、「歴史的現在」ということについて見てみましょう。



◇ 「ものみの塔」誌1957年2月15日号, ものみの塔聖書冊子協会

(問)ヨハネ 8:58はジェームズ王欽定訳聖書によれば「イエス彼等に言い給ふ『まことにまことに我汝等に告ぐ。アブラハムの前に我在りなり。』」となっています。……なぜ新世界訳聖書は、「我在り(I am)」に代わって「わたしはいる(I have been)」を使うのですか?

(答)ここで用いられているギリシャ語動詞エイミの文字は現在時制です。しかし、これにアブラハムの時代に言及するアオリスト不定詞節が先行していることを考慮すると、ギリシャ語動詞エイミは歴史的現在と見なさなければなりません。



◇ 「ものみの塔」誌1974年9月1日号(12月1日号), ものみの塔聖書冊子協会

 イエスはアブラハム以前の時代に関連して自分のことを語っているのですから,ヨハネ 8章58節の動詞エイミは明らかに歴史的現在です。その点を示している聖書翻訳は非常に多くあります。例えば,アメリカ訳はこう訳出しています。「アブラハムの生まれる前からわたしは存在していた」。



 これは、先にすこし述べたように、もともとエホバの証人に対抗する諸教会の側から主張されていたことを、エホバの証人側が逆に利用した、ということのようです。しかし、内容はかなり変わっています。
 これだけでもかなりややこしい話になってしまったのですが、さらにややこしいことに、エホバの証人の主張を受けて、今度は諸教会側から、この表現は歴史的現在ではありえない、という反論が提起されているようです。

 ヨハネ 5:58の表現は歴史的現在なのでしょうか。これは、そうだともそうでないとも言えるようです。
 聖書のギリシャ語を研究する学者たちは、聖書における歴史的現在の用法について議論を交わしてきました。このように言うときの歴史的現在とはかなり広い意味の歴史的現在で、過去の文と現在の文が混じっている文であれば適用されます。このような意味において、この表現は歴史的現在であると言えるようです。しかし、これは一般的な意味での歴史的現在とはやや内容が異なります。これが一般的な意味においての歴史的現在であるかは判断が難しいところでしょう。

 この話をさらにややこしくしているのは、歴史的現在についての学者たちの見解です。近年、聖書のギリシャ語を調べる学者たちは、極めて厳密に論じればギリシャ語に歴史的現在は存在し得ない、と考えるようになっています。たとえばこのように言うことができます。「聖書ギリシャ語における現在とはある時点での現在を示しているに過ぎない。そのある時とはある場合には過去かもしれないしある場合には現在かもしれないしある場合には未来かもしれない。同様に、聖書ギリシャ語における過去とはある時点での過去を示しているに過ぎない」。このように言うと、厳密に論じればギリシャ語に現在形や過去形というものはないということになります。ギリシャ語の時制に現在と過去が存在しないのであれば、必然的に歴史的現在という表現も存在しないことになります。



◇ 「ギリシャ語新約聖書の語法」, スタンリー・E・ポーター (表記修正)

 著者が過去からの行動を現在に持ってきて生き生きとさせたい時に、この用法は用いられていると多くの文法学者たちが論じている。この見解は多くの注解書で取り上げられて、不朽のものとされている。しかし、時制機能の見解が時代遅れであり……退けなければならない。



 このへんの問題を放置して、とりあえず、これは歴史的現在であると一方的に結論することにしましょう。では、同じ見解から異なる結論が出てくるはどうしてなのでしょうか。一方の主張は、これは歴史的現在であるから “I am” と訳さなければならない、というものです。もう一方の主張は、これは歴史的現在であるから “I have been” と訳さなければならない、というものです。どうしてこのような違いが出るのでしょうか。
 ここに見られるのは、翻訳の際に歴史的現在を修正すべきかどうか、という課題に対する見解の相違であるようです。歴史的現在を修正しないなら訳文は “I am” になりますが、修正するなら “I have been” となります。ですから、エホバの証人は、歴史的現在の表現は翻訳の際に修正されるべきという主張をしていることになります。

 どうして、歴史的現在の修正という課題が出てくるのでしょうか。翻訳の際に解決すべき歴史的現在の問題を理解するために、現改訳聖書に注目しましょう。この聖書は、聖書原典にでてくる歴史的現在の表現をなにかと杓子定規に訳出しています。



マルコ 1:29-31

◇ 現改訳聖書 (2011年1月時点の訳稿) ◇ (ファンダメンタル)
そして、すぐにイエスは会堂を出ると、ヤコブとヨハネと共にシモンとアンデレの家に入った。シモンの姑(しゅうとめ)が熱病にかかって寝ていたので、人々はイエスに知らせる。そこで、イエスは近づいて手をぐいとつかんで起こされると、すぐに熱は去り、姑は一同をもてなしていた。



 訳文を見ると、かなりぎこちないということに気づかされます。この聖書を読み進めると、自然な訳文を組み立てるためには、聖書の歴史的現在の表現は歴史的現在でないふつうの表現に修正せざるを得ないということに気づかされます。私たちが手にする聖書は、現改訳聖書のような例外を別にすれば、すべてが歴史的現在を修正しています。

 残りは、「完了時制直説法」と「完了時制」と「直説法完了形」と「完了直説法」になります。これらは表現が一部違うだけで、同じことを指しているようです。これは、たとえば「手回し充電式ラジオ」というものがあった場合、それを「手回しラジオ」と言ったり「充電式ラジオ」と言ったり「手回し式充電ラジオ」と言ったりすることに例えられます。
 また、これが「完了不定時制」の役割を果たしているということは、ラジオが新聞や音楽プレーヤーの代わりになるというようなことに例えられますし、「歴史的現在」の用法であるということは、ラジオが再生中であるとか充電中であるとかいうようなことに例えられます。そのようなわけで、エホバの証人による一連の主張に特に矛盾というものは見られないようです。

 ただ、矛盾ということについては、一点、気をつけなければならない点があります。それは、エホバの証人は一連の主張において英語の現在完了の持つ欠陥をうまく利用しているという点です。
 先に指摘した内容を思い出してもらいたいのですが、英語の現在完了には完了と継続の両方のニュアンスがあるという問題があります。前者の場合は「私は……をし終えた」とか「私は……をしたことがある」という意味になりますが、後者の場合だと、「私は……をずっとしている」という意味になります。そうすると、どうでしょうか。一連のエホバの証人の主張において、「歴史的現在である」との主張は「私は……をしたことがある」の意味に相当しますが、「過去からの継続状態にある」との主張は「私は……をずっとしている」の意味に相当します。この両者は別のものですが、英訳文にすると同じになってしまいます。
 もう書きませんが、ほかにもいくつか事情があって、新世界訳聖書で採用された “I have been” の訳は、いろいろな意味で隙のない万能な訳であるようです。これはなかなかずるいのではないでしょうか。(*この点については、後日、この文書の末尾に「聖書ギリシャ語の時制の詳しい話……」を追記しています。)

 ここで、新共同訳聖書のスタディ版に注目しましょう。この聖書は巻末の付録『キーワード』でこの聖句のことを注解しています。ここでは便宜的に、文章に記号をふり、文を幾らか組み替えて引用します。



◇ 新共同訳聖書スタディ版, キーワード「わたしはある」の項, 日本聖書協会 (表記等修正)

[A] 『わたしはある』……と神はこたえた。……神の名を表すヘブライ語(ヤーウェ)は、ヘブライ語の「ある」という動詞に最も関係が深い語であり、……
[B1] ヨハネによる福音書の中で、イエスは神について以上の特徴と関連させ、……「わたしは(~で)ある」という言葉を用いている。……
[C] すなわち、「アブラハムが生まれる前から『わたしはある』」。



 この解説はなかなか面白いことをやっています。「ある」に「(~で)」をつけて、その意味を「である」にしてしまっているのです。
 ここで注目されているギリシャ語 ειμι (エイミ)ですが、先に指摘したヘブライ語エフエの場合と同様、その意味は二つのグループに分けることができます。



○ ヨハネ 8:58における ειμι の意味の分類

「なる」の文意のグループ : 「なる」, 「である」

「ある」の文意のグループ : 「ある」, 「存在する」



 「なる」のグループと「ある」のグループは異なります。しかし、「なる」のグループに属する「である」は「ある」と綴りが似ていて紛らわしいので、この文書は言葉の錯覚をうまく利用して、両者を二度に渡ってすり替えてしまっています。つまり、[A]導入の部分では「ある」の意味を持ち出し、[B]繋ぎの部分でそれを「である」の意味に変え、[C]結論の部分で「ある」に戻す、という具合です。
 そうすることにより、繋ぎの部分で、まったく異なる要素を持ち出すことが可能になりました。それは「なる」のグループに属する要素です。
 この[B]繋ぎの部分をさらに見てみましょう。



◇ 新共同訳聖書スタディ版, キーワード「わたしはある」の項, 日本聖書協会 (表記等修正)

[B2] イエスは、……「私が命のパンである」……「わたしは世の光である」……「私は羊の門である」……「私は道であり、真理であり、命である」と自分を明らかにしている。



 解説は、聖書からいくつもの引用を行いながら、イエスがさまざまな者である方であると指摘しています。これは、言い換えると、イエスはさまざまな者となる方であるということです。
 これは、出エジプト 3:14においてエホバが「なる」方であるという読み方をした場合と見事に調和します。すでにひとこと触れたように、出エジプト 3:14の称号の「なる」の読みには神学的裏付けが豊富にあります。それをイエスに適用できるのです。

 この神学的根拠について、エホバの証人出版物がどう述べているかを見てみましょう。



◇ 「エホバに近づきなさい」, ものみの塔聖書冊子協会

 するとエホバは,ご自分の名の意味を説明し,モーセに,「わたしは自分がなるところのものとなる」とお告げになります。(出エジプト記 3:14)多くの聖書翻訳でこの箇所は,「わたしは,『わたしはある』という者である」となっています。しかし,「新世界訳」の注意深い訳し方が示すとおり,神は単にご自分が存在することを断言しておられたのではありません。むしろモーセに,さらにはわたしたちすべてに,その名の包含するものを教えておられました。エホバは,ご自分の約束の実現のために必要ないかなるものにも「なる」,あるいは自らをならせるのです。J・B・ロザハムの翻訳は的確にもこの聖句を,「わたしは何であれ自分の望むものになる」と訳出しています。聖書ヘブライ語の一権威者は,この表現についてこう説明しています。「いかなる状況や必要……が生じようとも,神は必要にこたえる解決策と『なる』のである」。
 それは,当時のイスラエル人にとって何を意味したでしょうか。どんな障害が立ちはだかろうと,またどのような窮地に陥ろうとも,エホバはイスラエル人を奴隷状態から救出して約束の地に導き入れるのに必要ないかなるものにもなる,ということです。その名は,神に対する確信を吹き込んだに違いありません。今日のわたしたちにとっても同じです。(詩編 9:10)どんな点でそう言えますか。
 例えで考えてみましょう。親は,子どもを育ててゆくに当たって,いかに多様な務めを果たし,適応力を発揮すべきかを知っています。親はほんの一日のうちに,看護人,コック,教師,しつけ係,裁判官など,さまざまな役割をこなさなければならないことがあります。求められる役割があまりに多岐にわたるので気が遠くなる,と言う人もいるほどです。親は,幼い子どもから絶対の信頼を寄せられていることを感じます。お父さんやお母さんは痛みを和らげてくれ,どんなけんかも治め,壊れたおもちゃは何でも直し,次々と浮かんでくる質問にはみんな答えてくれる,という絶大な信頼です。親の中には,限界を感じて自信を失う人や,時に挫折感を抱く人もいます。役割の多くを果たす点で自分は情けないほど資格がないと感じるのです。
 エホバも愛のある親です。しかしエホバは,地上にいるご自分の子どもたちに最善の世話をするために,ご自身の完全な規準の枠内で何にでもなることができます。ですからわたしたちは,神のみ名エホバを思い巡らすとき,神を,想像しえる最良の父親と考えます。(ヤコブ 1:17)モーセおよび他のすべての忠実なイスラエル人はやがて,エホバがまさにその名のとおりの方であることを体得することになりました。神がご自身を,無敵の軍司令官,自然界のあらゆる力の統御者とならせる様子を,また比類のない立法者・裁き主・建築者・食物と水の供給者・衣服や履物の維持者など,さまざまな者とならせる様子を,畏怖の念を覚えつつ目撃したのです。
 このように神は,ご自分の固有の名を知らせ,その意味を説明し,さらにご自分がその名の意味するとおりの方であることを実証してこられました。



 イエスもエホバと同様、救い主という務めを果たすために何にでもなられる方ですから、この両者は性質において一致しています。

 本来、このように話を進めた場合は、[C]のところで、ヨハネ 8:58における εγω ειμι は称号ではなく主語と動詞にすぎないと述べることになります。ここで再び、英語で“I am the King.”と言う場合を考えてください。この“the King”の部分が多様であって一言では言い切れないような場合、言い切れない部分を省略してしまって“I am.”で終わらせてしまうことがあるかもしれません。ヨハネ 8:58の場合がそうであるという趣旨です。ところが、この解説はそうはしていません。どうしてでしょうか。それは、この解説が新共同訳聖書についている付録であり、新共同訳聖書の訳文がこれを称号にしてしまっているからです。

 ヨハネ 8:58の εγω ειμι を称号であるとみなすことをあきらめてしまえば、もっと正確な、詐欺的要素のない解説が可能となるようです。とはいえ、この表現は「アブラハムが存在する前から」という表現とくっついていますし、その前にはユダヤ人の質問もありますので、このような努力を払っても、文意についての矛盾を完全に除去することはできないようです。



ヨハネ 8:57-58

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
それゆえユダヤ人たちは彼に言った,「あなたはまだ五十歳になってもいないのに,アブラハムを見たことがあるのですか」。イエスは彼らに言われた,「きわめて真実にあなた方に言いますが,アブラハムが存在する前からわたしはいるのです」。






 ここで、さきほど引用した、全日本脱カルト研究会(旧「生ける水の会」)が公開している『「新世界訳聖書」は学問的か』という文書を取り上げ、その内容に対する私の弁明を述べたいと思います。

 といいますのも、全日本脱カルト研究会は私と対立状態にありまして、この文書は私を非難する文書の参照資料として研究会が示したものだからです。この辺の事情については「全日本脱カルト研究会(旧「生ける水の会」)の提言について」をご覧ください。

 この文書はまずこう述べています。



◇ 『「新世界訳聖書」は学問的か』, オアシス, 全日本脱カルト研究会

 学問的に正直な聖書学者は「新世界訳聖書」を容認しない。翻訳の土台が、霊媒に頼っていたり、文法的に一貫性がなかったり不正確であったりする。また、ものみの塔の教理を擁護する意訳である。



 文書は、新世界訳聖書の翻訳の土台は霊媒であるという主張の根拠として、ヨハネス・グレベールの引用問題を指摘しています。これはどのような問題でしょうか。グレベールは新約聖書を翻訳するときに霊媒に頼って訳文を決めることがあったそうです。そのような不適切な手法で翻訳された聖書が、新世界訳聖書の幾つかの聖句の訳し方を説明するためにエホバの証人出版物において度々引用されたため、新世界訳聖書は反対者による手痛い批判を受けるようになりました。
 文書はこのように批判しています。



◇ 『「新世界訳聖書」は学問的か』, オアシス, 全日本脱カルト研究会

 利用できるものは、霊媒であろうと何でも利用しようとする態度は、ものみの塔の体質を表している。



 この件については、こう言われても仕方がないと私は思います。
 ただ、この引用問題を根拠にして新世界訳聖書が「霊媒に頼っている」みたいに言うのはどうかと思います。どう考えたってグレベールは新世界訳聖書の土台ではありません。もしかするとこれが新世界訳における特定の聖句の訳出に問題を生じさせているかもしれませんが、「ものみの塔」誌が説明しているように、その疑惑となるのはマタイ 27:52-53とヨハネ 1:1の二つであり、しかも、この二つの訳文の主要な根拠はグレベールではないとのことですので、その心配はいらないようです。

 続いて文書は、エンファティック・ダイアグロット訳を攻撃しています。これは、エホバの証人の間ではそこそこ評価されているのですが、文書はこの出所を問題にしています。



◇ 『「新世界訳聖書」は学問的か』, オアシス, 全日本脱カルト研究会

 ものみの塔は、この翻訳を「霊感」1983年版322頁で学問的な訳として紹介している。この翻訳者は、ギリシャ語学者ではなく語学力は英語しか用いることの出来ない人物によって翻訳されたものである。



 この訳本の翻訳者にギリシャ語ができないということはさすがにないと思います。これだけの内容のものを著しているのですから。しかし、彼がギリシャ語学者ではないというのは本当ですので、この指摘が全く間違っているということはありません。

 続いて文書は、二つの図版の写真を掲載しながら、新世界訳聖書の底本がすり替えられてしまったという主張を非常に巧みな仕方で展開しています。



◇ 『「新世界訳聖書」は学問的か』, オアシス, 全日本脱カルト研究会

新世界訳聖書の翻訳土台の変更

 1983年発行「聖書全体は霊感を受けたもので有益です」(以下「霊感」と略す。)では、新世界訳の最も近い位置に図示されているのはエンファティック・ダイアグロット訳である。
 ……1990年版「霊感」では「新世界訳聖書」はウェスト・コットとホートのギリシャ語本文からの流れとする。



 まず文書は、古いほうの図版によれば新世界訳聖書の底本はエンファティック・ダイアグロット訳だ、ということをほのめかしています。ところが、同じ本の新しい図版を見ると、いつのまにか底本がウェストコットとホートの校訂本文に「変更」されてしまっている、と主張します。

 では実際にその二つの図版を見てみましょう。
 まずは古いほうの版です。





 たしかに、『クリスチャン・ギリシャ語聖書 新世界訳』のブロックの一番近いところに『エンファティック・ダイアグロット』のブロックがあります。しかし、よく見ると、『クリスチャン・ギリシャ語聖書 新世界訳』から伸びた太線が『ウェストコットとホートのギリシャ語本文』のブロックにつながっていますので、古い図版において、新世界訳聖書の底本はウェストコットとホートの校訂本文であるということが分かります。

 続いて、新しいほうの版です。





 図版が全面的に書き直されていることが分かります。しかし、内容はほぼ同じです。ここでは、変わっていないことを変わっているかのように思わせる巧みなテクニックが使われているようです。

 続いて文書はこう述べます。



◇ 『「新世界訳聖書」は学問的か』, オアシス, 全日本脱カルト研究会

 しかし、どのように翻訳すれば三位一体論者でありキリストが神であることを主張するウェスト・コットとホートの底本から反三位一体論やキリストが神であることを否定する翻訳が出来上がるのか。不思議でならない。



 疑問に思うことが的はずれです。校訂本文とは実質的には聖書の原典を印刷した本のことですから、編集者が誰であろうとテキストの内容はほとんど同じになります。このわずかに違うところを調べても、三位一体論にはまず関係しません。

 さらに文書はこう述べます。



◇ 『「新世界訳聖書」は学問的か』, オアシス, 全日本脱カルト研究会

 近年、ものみの塔は「ウェスト・コットとホートによる底本だけでなく、他の翻訳も参考にされました。」と発表しているが、どの底本を参考にしているのかは、明らかにしてはいない。



 近年になって、このようなことを言い出したそうです。このことは新世界訳聖書の初版(1950年)にちゃんと書かれているのですが……。しかも、文書によると、その底本が何であるかはいまだに明らかにされていないそうです。情報は新世界訳聖書の初版にちゃんと書かれていますし、最新の参照資料付き新世界訳聖書にも書かれていますし、先ほど確認した2つの図版にだって載っているのですが……。わざわざ図版のコピーを掲載しておいて、それはないでしょう。

 要するに、「もうネタ切れ」ということらしいです。最初のうちは“それなりに事実”というような話をしていたのですが、それでは話が続かなくなってきたので、「もうなんでも言ってやれ」という感じで文書を続けているらしいです。

 文書は続けて述べます。



◇ 『「新世界訳聖書」は学問的か』, オアシス, 全日本脱カルト研究会

 エホバの証人の用いる論法で「他の翻訳にもこう訳しているので新世界訳は間違いとは言えないようです」などと言う事がある。この考え方自体が新世界訳が、ギリシャ語底本に基づいていないことを露呈している。



 これは、私が以前に多用していた表現です。彼が私の名を持ち出しているということはないのですが、状況が状況ですので、私の表現法について嫌みを述べているものと思われます。
 もっとも、私はその言い回しに続けてギリシャ語やヘブライ語についての解説もしてきましたから、問題はないはずです。もちろん、新世界訳聖書はギリシャ語底本に基づいていますし、仮に私がこのサイトで何かおかしなことを言ったからといって新世界訳聖書の底本が変わるわけではありません。



◇ 『「新世界訳聖書」は学問的か』, オアシス, 全日本脱カルト研究会

 地獄を否定しているグリースバッハの翻訳もギリシャ語底本に基づいているのではなく、翻訳者の主観からの英訳であり近年のものである。



 グリースバッハは翻訳ではなく校訂本文です。ギリシャ語底本に基づくも何も、これはギリシャ語底本そのものです。文書は新世界訳聖書が聖書原典から訳されたものではないことをファンダメンタルな手法を駆使して証明することを目指していますから、そのへんの都合でこう言うのでしょう。
 
 文書はこのあとも同じような論法を続けているのですが、もう、引用と弁明は省略しておきます。

 そして、文書の最後にヨハネ 8:58についての記述があります。これについてはすでに解説した通りです。






 2017年9月に新改訳聖書の新しい版が出版されました。新しい版は訳文が新共同訳聖書とそろうように調整されているようです。



ヨハネ 8:58

◇ 新改訳聖書 [第三版] ◇ (ファンダメンタル)
イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」

◇ 新改訳聖書 [2017年版] ◇ (ファンダメンタル)
イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』なのです。」






 ここで、聖書ギリシャ語の時制の詳しい話をしたいと思います。

 聖書のギリシャ語における「現在形」は、厳密には現在形ではありません。それは「継続相」です。
 しかし、聖書ギリシャ語の教科書や文法書の多くは、これを現在時制として扱い、そこに付け加えをします。



◇ 「新約聖書ギリシャ語原典入門」, J・G・メイチェン

 現在時制においては、ギリシャ語では、「私は解く」と、「私は解いている」との区別がない。前者の「私は解く」は単に動作が現在行われていることを示し、後者の「私は解いている」はその動作が継続していることに注目している。



 つまり、聖書ギリシャ語の現在形は基本的には現在時制で、かつ、それが継続相である場合とそうでない場合がある、という捉え方をします。このウエブサイトもほとんどの箇所で同じ考え方をしています。

 しかし、このような理解は、厳密には正しくありません。



◇ 「ギリシャ語新約聖書の語法」, スタンリー・E・ポーター> (表記修正)

 ギリシャ語では、時間的価値(過去、現在、未来)は動詞アスペクト(または時制形)の使用だけでは確立されない。ほとんどのギリシャ語の初心者のように、特定の時制形が自動的に行動の起こる特定の時を指す、と初級レベルで教わった人々には、これは驚きかもしれない。「絶対時制」と呼ばれる通常の説明によれば、……現在時制……には現在の時間概念……があるとされる。……より現実的な考え方は「相対的時間」であろう。



 何が違うかというと、ギリシャ語の現在形は現在時制であるとは限らないということです。それは過去や未来であることもあります。

 ギリシャ語の現在形の、つまり継続相の概念を理解するために、「ナポレオンは1769年から1821年まで生存しました」という文章を考えましょう。
 ここに出てくる「生存しました」は、日本語では過去形です。ただし、この場合の「生存しました」には、1769年から1821年まで継続した生存という意味合いがあります。このような時、聖書のギリシャ語では、継続相つまり現在形を使うことができます。
 この時、話し手の着眼点は1769年から1821年までのどこにあるでしょうか。どこにもありません。あえて言うと、それは1769年から1821年までの間に均一にあります。しかし、もし文脈にこのような一言があるなら、話は変わります。「ナポレオンはいつ生まれましたか?」。このような質問を受けて「ナポレオンは1769年から1821年まで生存しました」と答えたのなら、着眼点はその期間の冒頭、1769年になります。

 この説明は、この文書のテーマであるヨハネ 8:58にそのまま当てはまります。



ヨハネ 8:57-58

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
それゆえユダヤ人たちは彼に言った,「あなたはまだ五十歳になってもいないのに,アブラハムを見たことがあるのですか」。イエスは彼らに言われた,「きわめて真実にあなた方に言いますが,アブラハムが存在する前からわたしはいるのです」。



 つまり、ここでイエスが用いた表現の厳密な意味は、日本語に直すと「アブラハムが存在する前に私はいました」になります。しかし、それは継続相であり、しかも現在までの継続相ですので、新世界訳聖書の英語版のような“I have been”という訳がよく合います。
 これは歴史的現在とは違いますが、近いものです。実際、学者たちはこれを歴史的現在と呼んでいます。

 もしかするとあなたはこう思うかもしれません。なぜ、聖書ギリシャ語の教科書は間違ったことを教えているのだろうか。
 理由は二つあります。ひとつは、聖書ギリシャ語の時制の感覚は現代人の大半には理解できないということです。あなたを含めたあらゆる人々は、現在形や過去形を使う言語を使ってすべての思考を行っています。そのため、頭の中がそういうふうに出来上がってしまっていて、いまさら手直しなどできません。ですからこれはペンギンに向かって空を飛べと言うような話です。もうひとつは、聖書の大半の記述は、教科書の示す読み方で読んで問題ないということです。
 しかし、まったく問題がないというわけではありません。その一例となるのが、いま考えているヨハネ 8:58です。

 するとあなたはさらにこう思うかもしれません。そうすると、問題になる事例はほかにもあるんじゃないですか。
 そこで、私から、同じような例をひとつ指摘したいと思います。それはコリント第二 12:2です。(*この記述は2022年06月に公表されました。)



コリント第二 12:2-3

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
わたしはキリストと結ばれたひとりの人を知っています。その人は十四年前に ― それが体においてであったかどうかわたしは知りません。体を出てであったかどうかも知りません。神が知っておられます ― そのような者として第三の天に連れ去られました。そうです,わたしはそのような人を知っています ― それが体においてであったか体を離れてであったか,わたしは知りません。神が知っておられます ―



 ここで問題となるのは「十四年前に」という部分が、その前の文にかかっているのか、それとも後ろの文にかかっているのか、ということです。
 翻訳された聖書は、ほぼ例外なく、後ろの文を選択します。理由は幾つかあって、一つは、「知っています」が現在形だから、だそうです。「十四年前に」と言うならそれは「知りました」でなければいけないはずなのにそうなっていない、という間違った言語感覚があって、そう判断されているようです。
 聖書ギリシャ語の健全な感覚に従えば、これはどう考えても前の文にかかっています。もし、これを後ろの文につなげるとなると、参照資料付き聖書の訳文に見るように、直後にある文を飛び越えなければなりません。これはあまりにも不自然です。しかし、翻訳された聖書ではこちらのほうが採用されています。

 もちろん、世の中にはこのような落とし穴にはまらない方もおられます。



コリント第二 12:2

◇ 田川健三訳聖書 ◇ (プロテスタント)
私はキリストにおける或る人物を十四年前に知っている。それが身体のままなのか、身体の外に出てのことなのかは、私は知らない。神が御存知である。ともかくこのような人物が第三の天にまで連れ去られた。



◇ 田川健三訳聖書 , コリント第二 12:2 解説

 この句を「知っている」にかけずに、最後の「連れ去られた」にかける説がある。ふつうはこちらの説をとる。もしもパウロが自分自身の体験を語っているのであれば、その人物を知ったのが十四年前だ、という言い方は不自然だというのである。しかし、原文では「十四年前」と「連れ去られた」ははるかに離れているので、ちょっと無理。



 解説は現在形の罠について触れていませんが、田川氏がその罠をちゃんとよけていることが見て取れます。
 そして、この「知っている」は新世界訳聖書の“I have been”と基本的に同じです。

 これは別の言い方をすると、「聖書ギリシャ語の歴史的現在には、初心者級とプロ級とがある」ということです。初心者級の歴史的現在は一般の歴史的現在と同じで、一般の聖書ギリシャ語教本に載せられています。プロ級の歴史的現在は一般の歴史的現在とは異なり、その説明が一般向けの本に載ることはまずありません。
 ヨハネ 8:58が歴史的現在であるという指摘については、「その見解は完璧に間違っている」とか「エホバの証人はまったくのギリシャ語の素人だ」という反論が大量にあります。これはもしかすると、“頭の悪い人から見た頭の賢い人は頭の悪い人だ”ということなのかもしれません。