エホバの証人の聖書

コリント第一 14:14-16

新世界訳聖書(エホバの証人)
というのは,わたしが異言で祈っている場合,祈っているのはわたしの霊[の賜物]であって,わたしの思いは実を結んでいないからです。では,どうすべきでしょうか。わたしは霊[の賜物]をもって祈りますが,同時に[自分の]思いをもって祈ります。わたしは霊[の賜物]をもって賛美を歌いますが,同時に[自分の]思いをもって賛美を歌うのです。そうでなければ,たとえあなたが霊[の賜物]をもって賛美をささげても,普通の人の座席に着いている人は,あなたが何を言っているのか分からないのですから,あなたのささげる感謝にどうして「アーメン」と言えるでしょうか。

新改訳聖書(ファンダメンタル)
もし私が異言で祈るなら、私のは祈るが、私の知性は実を結ばないのです。ではどうすればよいのでしょう。私はにおいて祈り、また知性においても祈りましょう。において賛美し、また知性においても賛美しましょう。そうでないと、あなたがにおいて祝福しても、異言を知らない人々の座席に着いている人は、あなたの言っていることがわからないのですから、あなたの感謝について、どうしてアーメンと言えるでしょう。


 この聖句について、「フリーマインドジャーナル」1994年6月号に掲載された、「新世界訳聖書における改竄」リストはこう解説しています。

』が『霊[の賜物]』に変えられている。
類似の幾つかの聖句におけるこの「霊」という語は、人間にはその心身とは別に特別な霊というものが存在していることを示すものである。エホバの証人は、他の聖句でも見られるように、霊のこの特性をはぐらかし、隠している。


 聖書によると、人間には「心」でも「体」でもない「霊」というものがあります。このように言うときの「霊」とは、分かりやすく言うと「心の動機」とか「心の傾向」とか「精神性」ということです。エホバの証人はそのことを否定したりはしませんが、フリーマインドジャーナルには異なる見解があるようです。

 この聖句は、部分だけを取り出して読むなら、人間の中にある「霊」と「心」の違いを論じているようにも読めます。この読み方だと、パウロは口先だけでなく心の深いところでも神を賛美する敬虔な人であるという意味になります。しかし、ここでは「異言」について語られていることに注目しなければなりません。異言というのは、神の聖霊が人に入ることによって、本人の意思によらず神の意志によって神の言葉を語る奇跡のことです。しかも、異言の霊は外国語でしゃべるので、話している当人はそれを理解することができません。これは、問題となっている聖句の一節前から読むとよく理解できます。

コリント第一 14:13-19
新世界訳聖書(エホバの証人)
ですから,異言を話す人は,自分が[それを]翻訳できるように祈りなさい。というのは,わたしが異言で祈っている場合,祈っているのはわたしの霊[の賜物]であって,わたしの思いは実を結んでいないからです。では,どうすべきでしょうか。わたしは霊[の賜物]をもって祈りますが,同時に[自分の]思いをもって祈ります。わたしは霊[の賜物]をもって賛美を歌いますが,同時に[自分の]思いをもって賛美を歌うのです。そうでなければ,たとえあなたが霊[の賜物]をもって賛美をささげても,普通の人の座席に着いている人は,あなたが何を言っているのか分からないのですから,あなたのささげる感謝にどうして「アーメン」と言えるでしょうか。確かに,あなたはりっぱに感謝をささげていることでしょう。それでも,相手の人は築き上げられてはいないのです。わたしは,自分があなた方のすべてより多くの異言を話すことを神に感謝しています。しかしそうではあっても,会衆の中では,異言で一万の言葉[を話す]より,むしろ自分の思いをもって五つの言葉を話し,こうして他の人たちを口頭で教え諭すこともできるようにと願うのです。

 この聖句は異言について述べているのですから、異言を述べる「霊」は人間の霊ではなく神の霊です。ですから、パウロが言いたかったのは、祈りをささげるパウロの敬虔さがどうという話ではありません。パウロとしては、自分が異言で話している時には、その言語が理解できない同国人のために、併せて自分の言語でも話すように努力している、ということです。
 新世界訳聖書が「霊」という語に「[賜物]」という語を加えているのは、フリーマインドジャーナルの主張するような聖書の誤読を防ぐためであるようです。
 パウロは、コリント第一 12:27からこの記述に至るまで、ずっと神の霊の賜物について論じています。ですから、誤読を防止するために付け加えられた語が「賜物」であることは当然の結果だと言えるでしょう。


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