新世界訳
エホバの証人の聖書

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コリント第一 14:14-16

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
というのは,わたしが異言で祈っている場合,祈っているのはわたしの霊[の賜物]であって,わたしの思いは実を結んでいないからです。では,どうすべきでしょうか。わたしは霊[の賜物]をもって祈りますが,同時に[自分の]思いをもって祈ります。わたしは霊[の賜物]をもって賛美を歌いますが,同時に[自分の]思いをもって賛美を歌うのです。そうでなければ,たとえあなたが霊[の賜物]をもって賛美をささげても,普通の人の座席に着いている人は,あなたが何を言っているのか分からないのですから,あなたのささげる感謝にどうして「アーメン」と言えるでしょうか。

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
私が異言で祈るなら、私のは祈りますが、理性は働いていません。では、どうすればよいのでしょうか。で祈り、理性でも祈ることにしましょう。でほめ歌を歌い、理性でもほめ歌を歌いましょう。さもなければ、あなたがで祝福しても、初心者の立場にある者は、どうしてあなたの感謝に「アーメン」と言えるでしょうか。あなたが何を言っているのか、彼には分らないからです。

◇ 新改訳聖書 [2017年版] ◇ (ファンダメンタル)
もし私が異言で祈るなら、私のは祈りますが、私の知性は実を結びません。それでは、どうすればよいのでしょう。私はで祈り、知性でも祈りましょう。で賛美し、知性でも賛美しましょう。そうでないと、あなたがにおいて賛美しても、初心者の席に着いている人は、あなたの感謝について、どうしてアーメンと言えるでしょう。あなたが言っていることが分からないのですから。

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
私が別の言語で祈っている場合,聖なる力による能力で祈っているのであって,自分の知力を働かせているわけではありません。では,どうするとよいでしょうか。私は聖なる力による能力で祈りますが,自分の知力も使って祈ります。私は聖なる力による能力で賛美の歌を歌いますが,自分の知力も使って賛美の歌を歌います。そうでなければ,聖なる力による能力で賛美と感謝の祈りを捧げても,その場にいる普通の人は「アーメン」とどうして言えるでしょうか。何を祈っているのか分からないからです。



 聖書には「霊」という言葉がたくさんでてきます。聖書はこの言葉を様々なものを指して用いていますので、聖書の読者はこの語を見るたびに「この場合の霊は何だろうか」ということを考える必要があります。
 判断するためのおおざっぱな基準は、『それが誰の霊であるか』ということです。もしそれが「人の霊」なら、「霊」は「心」を指すかもしれません。もしそれが「神の霊」なら、神が用いる「聖霊」を指すかもしれません。
 ところが、聖書の中にはこの判断が難しい箇所、間違えてしまいやすい箇所があります。この聖句がその一例です。

 ここを単純に読むと、この「霊」は「人の霊」を指しているように思えます。しかし、実際には「神の霊」です。
 ここで語られているのは「異言」という神からの贈り物(賜物)です。この贈り物が最初に人に与えられたのは、イエスが死んでしばらくしたころです。



使徒 2:1-18

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
さて,ペンテコステの[祭りの]日が進行していた時,彼らは皆一緒に同じ場所にいた。すると突然,激しい風の吹きつけるような物音が天から起こり,彼らの座っている家全体を満たした。そして,さながら火のような舌が彼らに見えるようになってあちらこちらに配られ,彼ら各々の上に一つずつとどまり,彼らはみな聖霊に満たされ,が語らせるままに異なった国語で話し始めたのである。
ところで,エルサレムには,天下のあらゆる国から来たユダヤ人で,敬虔な人々が住んでいた。そして,この音が起こった時,大勢の人が共にやって来て,あっけに取られてしまった。彼らが自分の言語で話しているのをめいめいが聞いたからである。実際,彼らは非常に驚き,不思議がって言いだした,「まあ,見なさい,話しているこの人たちは皆ガリラヤ人ではないか。それなのに,わたしたちがそれぞれ自分の生まれた[国の]言語を聞くとはどうしてなのか。パルチア人,メディア人,エラム人,そして,メソポタミア,またユダヤとカパドキア,ポントスとアジア[地区],それにフリギアとパンフリア,エジプト,そしてキレネのほうにあるリビア各地の住民,またローマから来てとう留している者で,ユダヤ人も改宗者もおり,[また]クレタ人やアラビア人なのに,そのわたしたちが,神の壮大な事柄について彼らがわたしたちの国語で話すのを聞いているのだ」。確かに,彼らはみな非常に驚き,また当惑して,「これはどういうことなのか」と互いに言い合った。しかし,ほかの者たちは彼らをあざけって,「甘いぶどう酒に満たされているのだ」と言いだした。
しかしペテロは十一人の者と一緒に立ち上がり,声を上げて彼らにこう発言した。「ユダヤの皆さん,そしてエルサレムの住民のすべての方たち,このことを知ってください。わたしの言うことに耳を向けてください。実際に,この[人たち]は,あなた方が思うように酔っているのではありません。今は昼間の第三時なのです。それどころか,これは預言者ヨエルを通して言われた事柄です。『神は言われる,「そして終わりの日に,わたしは自分の霊の幾らかをあらゆるたぐいの肉なる者の上に注ぎ出し,あなた方の息子や娘たちは預言し,あなた方の若者たちは幻を見,老人たちは夢を見るであろう。そして,わたしの男奴隷の上にも,女奴隷の上にも,わたしはその日に自分の霊を注ぎ出し,彼らは預言するであろう。



 その後もさまざまな人に異言の霊は届けられ、これらは「賜物」とも呼ばれるようになりました。



使徒 10:44-46

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
ペテロがまだこれらのことについて話しているうちに,聖霊がみ言葉を聞いているすべての人の上に下った。そして,割礼を受けた人々で,ペテロと一緒に来ていた忠実な者たちは驚嘆した。無償の賜物である聖霊が諸国の人々の上にも注ぎ出されていたからである。彼らが[いろいろな]国語で話し,神をあがめているのを聞いたのである。これに答え応じてペテロは[言った],



 ここまで見ただけでも、異言をもたらす霊が、単に「霊」と呼ばれたり、「聖霊」と呼ばれたり、「賜物」と呼ばれたりしていることが解ります。

 こののち聖書は、たいした説明もなしにこれらの用語を気まぐれに使うようになりましたので、それで混乱が生じてしまったというところがあります。
 新世界訳聖書は、訳文の修正によってこの問題に取り組むことにしました。異言をもたらす霊は、聖書のさまざまな箇所で「賜物」と呼ばれています。その表現をここに挿入することによって、それが人に贈り物として届けられた「神の霊」であることを明示しています。

 さらに、新世界訳聖書の改訂版では『聖書をもっと解りやすく』ということが考えられています。「霊の賜物」という訳は「聖なる力による能力」に替えられ、とても解りやすくなりました。聖書特有の用語である「異言」も「別の言語」となっています。

 一方、新世界訳聖書以外の聖書にはこのような工夫がないため、これらの聖書の読者は、日ごろから聖書をよく勉強しておくか、ちくいち解説書を読む必要があるでしょう。






 「フリーマインドジャーナル」1994年5-6月号に掲載された「新世界訳聖書における改竄」は、新世界訳聖書の行った工夫を攻撃してこのように述べています。



◇ 'Misleading Revisions in the New World Translation' Andy Bjorklund, Free Minds Journal May/Jun 1994

 “霊”が“霊[の賜物]”に変えられている。
 幾つかの関連聖句が示すように、この聖句は、人にはその心身とは別に特別な霊というものが存在することを示唆している。しかしエホバの証人は、訳文の修正によって、このことをはぐらかし、隠そうとしている。



 いつものことですが、フリーマインドジャーナルの考えていることはいろいろとずれているようです。