エホバの証人の聖書

コリント第一 15:2

新世界訳聖書(エホバの証人)
それにより,わたしがあなた方に良いたよりを宣明したそのことばをもって救われつつあります。もしあなた方がそれをしっかりと守っているなら,実際,いたずらに信者となったのでなければですが。

新改訳聖書(ファンダメンタル)
また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。


 この聖句について、「フリーマインドジャーナル」1994年6月号に掲載された、「新世界訳聖書における改竄」リストはこう解説しています。

『この福音によってあなたは救われる』が『それにより救われつつあります』に変えられている。
類似した、前述の使徒 16:30の改竄と同様、この聖句では再び、福音による救いがあいまいにされている。エホバの証人にとっての救いとは、「救われつつある」つまり発展的な意味合いを持っており、エホバの前での最後の裁きの日までは不確定のものとされている。


 聖書の中には、キリストの救い(つまり福音の救い)は一度限りであるという言葉があります。少しこれを見てみましょう。

ローマ 6:8-11
新世界訳聖書(エホバの証人)
さらに,キリストと共に死んだのであれば,彼と共に生きるようになることをもわたしたちは信じています。死人の中からよみがえらされた今,キリストはもはや死なないということを,わたしたちは知っているからです。死はもはや彼に対して主人ではありません。彼の遂げた死,それは罪に関してただ一度かぎり遂げた死であったからです。また,[いま]生きておられる[命],それは神に関して生きておられる[命]なのです。あなた方も同様です。自分を,罪に関してはまさしく死んだもの,しかし,神に関してはキリスト・イエスによって生きているものとみなしなさい。

 「あなた方も同様です」と書かれているので、救う側が一度かぎり永遠に救うように、救われる側も一度かぎり永遠に救われるという教理が生まれました。これはある意味において正しいと言えます。これは類似の聖句からも明らかです。

ヘブライ 10:1-10
新世界訳聖書(エホバの証人)
律法は来たるべき良い事柄の影を備えてはいても,事の実質そのものを[備えて]はいないので,年ごとに絶えずささげる同じ犠牲をもって,[神に]近づく者たちを完全にすることは決してできないのです。そうでないとすれば,神聖な奉仕をささげる者はただ一度だけで清められて,もはや罪の自覚を持たないのですから,[犠牲]はささげられなくなったはずではないでしょうか。ところがその逆に,そうした犠牲によって年ごとに罪を思い出させるのです。雄牛ややぎの血は罪を取り去ることができないからです。
ゆえに,世に来る時,彼はこう言います。「『犠牲や捧げ物をあなたは望まず,わたしのために体を備えてくださった。あなたは全焼燔の捧げ物や罪の[捧げ物]を是認されなかった』。そこでわたしは言った,『ご覧ください,わたしは参りました(書の巻き物にわたしについて書いてあります),神よ,あなたのご意志を行なうために』」。初めに,「あなたは,犠牲や捧げ物,また全焼燔の捧げ物や罪の[捧げ物]を望まず,また是認されなかった」と言い―これらは律法にしたがってささげられる[犠牲]です― その後,「ご覧ください,わたしはあなたのご意志を行なうために参りました」と言われるのです。彼は,第二のものを確立するために,第一のものを除き去ります。ここに述べた「ご意志」のもとに,わたしたちは,イエス・キリストの体がただ一度かぎりささげられたことによって,神聖なものとされているのです。

 この最後のところ、「神聖なところとされている」というところをギリシャ語原典で見てみると、完了分詞が用いられています。これは二通りに読めると思います。一つは、クリスチャンはキリストの救いによってすでに神聖にされている、というものです。これはフリーマインドジャーナルの主張するところに似ています。もう一つは、クリスチャンがいつ救われるとしても、その救いが示されたのは過去のことである、というものです。どちらの意味に読むとしても、ある意味において、クリスチャンである人がすでに救われた状態にあることは間違いありません。

 キリスト教ファンダメンタリストたちはこの考えをさらに発展させ、究極的なものとしてしまいました。救いは一度限りだと聖書が述べていることを根拠に、人は一度救われてしまえば、もう後戻りはしないと彼らは主張します。彼らの信ずるところによると、イエス・キリストの贖いの救いは完璧なものなので、教会に行って洗礼を受けた人はすでに完全に救われており、洗礼の後にどのような罪を犯してもそれはすべて許されます。
 しかし、この考え方は聖書の幾つかの考えと調和しません。先に述べたような意味において救われることが、将来において救われることとは別であることを示す聖句が幾つかあります。

ローマ 11:22
新世界訳聖書(エホバの証人)
それゆえ,神のご親切と厳しさとを見なさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあります。一方あなたに対しては神のご親切があります。ただし,あなたがそのご親切のうちにとどまっていればのことです。そうでないと,あなたも切り落とされることになります。

フィリピ 2:12
新世界訳聖書(エホバの証人)
したがって,わたしの愛する者たちよ,あなた方は常に従ってきましたが,つまり,わたしのいる時だけでなく,わたしのいない今いよいよ進んで[従って]いますが,そのようにして,恐れとおののきをもって自分の救いを達成してゆきなさい。

ヘブライ 10:26-27
新世界訳聖書(エホバの証人)
というのは,真理の正確な知識を受けた後,故意に罪を習わしにするなら,罪のための犠牲はもはや何も残されておらず,むしろ,裁きに対するある種の恐ろしい予期と,逆らう者たちを焼き尽くそうとする火のようなねたみとがあるからです。

 特に強力なのはユダ書の記述です。

ユダ 5
新世界訳聖書(エホバの証人)
あなた方は一度すべてのことを知りましたが,それでもわたしは,あなた方に次のことを思い出させたいのです。それは,エホバが,民をエジプトの地から救い出したにもかかわらず,後に,信仰を示さない者たちを滅ぼされたことです。

 ユダ書は、人は一度救われたのに後になって滅ぼされるということがありますから気をつけてください、という内容になっています。もし、一度の救いが完璧なもので、永遠に効力のあるものなら、ユダ書を書くことは必要なかったでしょう。
 これをわかりやすく、たとえで説明してみましょう。あなたは今、近く発売される人気商品の予約券を持っています。この予約券を持っているなら、品薄な人気商品であっても確実に手に入れることができるでしょう。予約券はそのことを保証するものです。ここでのポイントは、予約券を手に入れることは商品を手に入れることと実質同じであることです。しかし、あなたが油断して、予約券をなくしてしまったり、破ってしまったりするなら、どうなるでしょうか。救いについても同じことが言えるでしょう。クリスチャンが今得ている現在の救いは、将来の救いの予約券のようなものです。これを守っているなら、人は確実に救いを得ることができます。しかし、その救われる特権を自ら台無しにしてしまう人もいることでしょう。その人は将来の救いを得損なうことになります。

 新世界訳聖書の訳文は、救いに関する聖書の考え方をよく反映したものだと思います。しかし、ファンダメンタルな視点では、それが信仰の不足であると見えるようです。


 言及の使徒 16:30については、使徒 4:12のことろで取り上げています。

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