新世界訳
エホバの証人の聖書

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ペテロ第二 1:11

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
事実,そうすることによって,わたしたちの主また救い主イエス・キリストの永遠の王国に入る[機会]が,あなた方に豊かに与えられるのです。

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
そのようにして皆さんは豊かに祝福され,救い主である主イエス・キリストの永遠の王国に入るのです。

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
こうして、私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの永遠の御国に入る恵みが、あなたがたに豊かに与えられるのです。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
こうして、わたしたちの主、救い主イエス・キリストの永遠の御国に確かに入ることができるようになります。

◇ 口語訳聖書 ◇ (プロテスタント)
こうして、わたしたちの主また救主イエス・キリストの永遠の国に入る恵みが、あなたがたに豊かに与えられるからである。

◇ 新改訳聖書 [2017年版] ◇ (ファンダメンタル)
このようにして、私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの永遠の御国に入る恵みを、豊かに与えられるのです。

◇ 新改訳聖書 [第三版] ◇ (ファンダメンタル)
このようにあなたがたは、私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの永遠の御国に入る恵みを豊かに加えられるのです。



 多くの聖書で「恵み」となっているところ、参照資料付き聖書では「[機会]」となっています。これはどうしてでしょうか。

 エホバの証人に反対する人の中には、このようなところを気にする方もおられるようです。エホバの証人統一協会対策香川ネット正木弥氏はこの聖句の問題をこのように指摘しています。



◇ 「ものみの塔の新世界訳聖書は改ざん聖書」, 正木弥 (表記等修正)

 新世界訳では、[ ]書きで"機会"ということばが用いられています。そのことばの意味がギリシャ語本文にはないのに、ここで用いられているのは、適切ではありません。残念なことは、キリストの永遠の御国に入ることが"機会"にしかすぎないものにされたことです。わたしたち信徒にとってそれは、単なる機会ではなく、確かな約束であり、予定された事実なのではありませんか。



 ここのところ、原典を見てみると、「王国に入るが与えられる」というような言い回しが用いられています。日本語に直訳するとかなり不自然です。これは「王国に入ることが与えられる」と訳すこともできますが、まだ不自然です。
 この問題を解決する方法は二つあります。一つは、思い切って「与えられる」を無視してしまうというもので、新共同訳聖書がその方法を採用しています。もう一つは、何かの語句を訳文に挿入するというもので、これがいま問題になっているところです。
 多くの訳本で採用されている「恵み」は、人が救われて神の王国に入ることが、神からの恵み、つまり贈り物であるということに注目しています。原典にはそのような語がありませんが、文章全体が示している文意を考えるなら、これは適切な語の挿入だということが言えるでしょう。
 それに対して「機会」という語は、あまり大きな意味を持たない、どちらかというと中立的な語です。ファンダメンタルの中にはこれについてとやかく言う方もおられますが、神の救いにせよ他の何かにせよ、機会がなければ経験も得られないわけで、それが永遠なのかとか確実なのかとかいうこととは別の話であるように思えます。
 これをたとえで考えてみましょう。ある男女が出合い、結婚することにします。出会いは機会とも言い替えられます。結婚する二人は誓います。私たちの愛は永遠のものです。それは真実の愛で決して消えることがありません。さて、二人がこのように誓ったということは、二人には出会いなどなかったということを意味しているのでしょうか。そんなことはないはずです。ではそれは単なる出会いに過ぎなかったのでしょうか。これもそうではないはずです。さらに二人はこう断言します。私たちが出合うことは運命づけられていたのです。そうすると、それは出会いではなかったのでしょうか。そういうことでもないでしょう。

 新世界訳聖書の改訂版はこの聖句の翻訳の問題に対する新しい解決法を示しています。ここで「与える」と訳されるギリシャ語には、より厳密には「豊かに祝福を与える」という意味合いがあります。新世界訳聖書の改訂版はこれを「祝福されて入る」と訳すことにより、原典との対応を守りつつ、議論の種となる補語の挿入も回避しました。これはなかなか器用なことだと思います。