新世界訳
エホバの証人の聖書

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コロサイ 1:15

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
彼は見えない神の像であって,全創造物の初子です

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です

◇ 新改訳聖書 [第三版] ◇ (ファンダメンタル)
御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です

◇ 口語訳聖書 ◇ (プロテスタント)
御子は、見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生れたかたである



 ここは、新世界訳聖書の訳文が原典に対して字義通りですが、他の主要な聖書はこれを修正し、異なる意味に訳出しています。
 どうしてこのような修正が行われるのでしょうか。この聖句には三位一体論にかかわる問題があるからのようです。

 現代のキリスト教会のほとんどは三位一体の神学を支持しています。そして三位一体論は、キリストは神である、ということを定義しています。もし三位一体論が唱えるようにキリストが神であるなら、キリストは神の創造物に含まれないはずです。そうすると、コロサイ 1:15の場合、新世界訳聖書がするようにこれを原典通りに訳出するのは間違っているということになります。
 一方、新世界訳聖書を翻訳したエホバの証人は原始キリスト教の考え方でキリストを理解しています。三位一体の神学は原始キリスト教より2世紀ほど後に成立した神学ですが、この考え方が台頭するまで、キリスト教はキリストのことを神の子であり神の創造物に含まれると考えていました。エホバの証人としてはイエスが神の創造物であることに何の異論もありませんので、これを字義通りに訳出しています。



○ 三位一体の論理

キリストは神である。
よって、キリストが神の創造物であるということはあり得ない。
コロサイ 1:15はキリストが創造物の初子であるということを述べているが、その意味は修正されなければならない。

○ エホバの証人の反論

キリストは神の子であり、神ではない。
神の子であるから、神の創造物である。
コロサイ 1:15の意味は原典通りでよい。



 ただ、ここで一点注意しなければならないことがあります。キリスト教世界はコロサイ 1:15の意味は修正されなければならないと考えていますが、だから訳文も修正しなければならないと考えるのは邦訳聖書の独自の方針です。たとえば英訳聖書では、一部例外がありますが、基本的に訳文の修正は行われません。



コロサイ 1:15

◇ ジェームズ王欽定訳聖書 (KJV/AV) ◇ (プロテスタント)
Who is the image of the invisible God, the firstborn of every creature:

◇ アメリカ標準訳聖書 (ASV) ◇ (プロテスタント)
who is the image of the invisible God, the firstborn of all creation;

◇ 新改訂標準訳聖書 (NRSV) ◇ (プロテスタント)
He is the image of the invisible God, the firstborn of all creation;

◇ 英語標準訳聖書 (ESV) ◇ (プロテスタント)
He is the image of the invisible God, the firstborn of all creation.

◇ 新世界訳参照資料付き聖書英語版 (NW/Reference Bible) ◇ (エホバの証人)
He is the image of the invisible God, the firstborn of all creation;



 さて、英訳聖書において“初子(ういご)”に相当する語は“firstborn”です。
 勘の鋭い方はこれを見て気づかれることがあると思います。“firstborn”の意味は“初子”もしくは“長子”ですが、文字の意味は「最初に生まれた」です。しかも、英語の“first”には“先に”という意味もありますから、これを「先に生まれた」と読むこともできます。これは、聖書原典のギリシャ語を見た場合も全く同様です。ギリシャ語でも、“初子”に相当する語の文字の意味は「最初に生まれた」です。つまり、単語の意味が何であるかということを無視して文字の意味を読めば、聖書のこの言葉は「先立って生まれた」と訳出することが可能です。

 このような読み方はどこまで有効なのでしょうか。単純に語義ということを考えた場合、これはかなり無理のあることのようです。というのも、確かに文字の意味としてはそういう意味があるのですが、現実問題として、この語のそういう用法は考えにくいからです。
 実際にありそうな事例を考えてみましょう。ある母親が子供たちを連れてきて、そのうちの一人を選び、「これが長男です」と言ったとします。もし、この時の“長男”という語に、『この子はほかの子供たちに先立って生まれてきた、よってこの子はこの母親の子ではない』という意味もあるとしたら、この語はそれに求められている機能を果たすことができるでしょうか。ギリシャ語においても英語においても、そのようなひねくれた語義は、その語が果たさなければならない役割に反するので、文字の意味ではあっても排除されています。



○ 床屋で散髪

日本語にも、文字の意味と語義とが異なるという表現はたくさんあります。「床屋で散髪」という表現の場合、その文字の意味は「床と屋根に髪の毛をまき散らす」ですが、そんな意味でこの表現を用いる人はいないはずです。



 ここで少し気になるのは、日本では、聖書ギリシャ語の辞典を見た場合に、この「先立って生まれた」が語義として載せられていることがあるということです。



◇ 「新約聖書ギリシア語辞典」, πρωτότοκος (プロートトコス) の項, 玉川直重, キリスト新聞社 (表記修正)

(すべての被造物に先だって生まれた)長子(キリスト), the first-born (of all creation).



 この辞書は英語の聖書ギリシャ語辞典をベースに作成されています。出典となる辞書での定義が併せて載せられていますので、ここで辞書の編者が何をやったか見て取ることができます。この方は、英語の“first-born”という定義を見たうえで、邦訳聖書の方針に基づいてこれを読み替えてしまったようです。ですから、辞典に載せられているこのような語義は、日本の辞書に特有のものとみなさなければならないようです。

 このような邦訳聖書の方針は、新世界訳聖書にとっては大きな打撃となっています。国内の主な訳本が新世界訳聖書と異なる訳出をし、しかも辞書がその訳を支持しているのですから、新世界訳聖書の訳は間違いである、エホバの証人は聖書を改竄している、というような主張が生じやすくなっています。

 一方、英語圏では、新世界訳聖書を含めたほとんどの聖書の訳文がそろっているため、訳文を見て意味をどう考えるかということが焦点になります。エホバの証人はこれを字義通りに解釈しますが、キリスト教世界としてはそうするわけにはいきません。

 1つめの方法は、聖書における“初子”という語の特殊な用法に注目するというものです。



◇ FIRE BIBLE NIV STUDENT EDITION, コロサイ 1:15の注釈

この言い回しはキリストが創造された者であることを意味してはいない。むしろ、旧約聖書において“初子”は、“第一人者”、“相続人”、“最上位”の意味で用いられている。



出エジプト 4:22

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
それであなたはファラオに言わねばならない,『エホバはこのように言われました。「イスラエルはわたしの子,わたしの初子である。

詩編 89:27 (新共同訳では 89:28)

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
そして,わたし自身が彼を初子として置き,地の王のうちの至高の者として[置く]であろう。



 聖書は、“初子”という表現を初子という意味とは違う意味で用いることがあります。もしコロサイ 1:15の“初子”がそのような用法で用いられているのなら、イエスは“初子”と呼ばれているだけで実際には初子ではないということになり、問題は克服されます。

 英訳聖書の中には、この考え方に基づいて訳文を修正しているものもあります。



コロサイ 1:15

◇ 新国際訳聖書 (NIV) ◇ (プロテスタント)
He is the image of the invisible God, the firstborn over (上位に) all creation.

◇ 現代英語訳/今日の英語訳 (TEV) ◇ (プロテスタント)
Christ is the visible likeness of the invisible God. He is the first-born Son, superior (最上位に) to all created things.



 しかし、この方法にはいくつか問題があります。
 一つは、聖書における“初子”のこのような用法は、神の僕の立場にある者の栄達に用いられるということです。次のような場面を考えてください。あるお金持ちの家に大勢の使用人がいますが、息子はいません。金持ちが死ぬとき、彼には息子がいなかったので、使用人の一人が彼の養子になり、遺産を相続します。これがこの用法の基本的な概念です。これをそのままイエスに適用すると、イエスはもともと神の初子の立場よりも格下の立場にあったが昇進して“初子”になったのだということになってしまいます。これでは、三位一体の神学が教えるようにイエスは創造物ではないということにはなりません。
 もう一つは、聖書にはイエスが神の子であるとか神の独り子であるとかいう表現が大量にあるということです。イエスは神の初子ではないという主張はイエスは神の子ではないという主張とほとんど同じです。このあたりの問題の解決は難しそうです。
 もう一つは、聖書にはコロサイ 1:15と同じことを述べた啓示(黙示録) 3:14があるということです。コロサイ 1:15を読み替えるなら、こちらも読み替えることを考えなければなりません。



啓示(黙示録) 3:14

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
「また,ラオデキアにある会衆の使いにこう書き送りなさい。アーメンなる者,忠実で真実な証人,神による創造の初めである者がこのように言う。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
ラオディキアにある教会の天使にこう書き送れ。『アーメンである方、誠実で真実な証人、神に創造された万物の源である方が、次のように言われる。

◇ 新改訳聖書 [第三版] ◇ (ファンダメンタル)
また、ラオデキヤにある教会の御使いに書き送れ。『アーメンである方、忠実で、真実な証人、神に造られたものの根源である方がこう言われる。

◇ 口語訳聖書 ◇ (プロテスタント)
ラオデキヤにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『アァメンたる者、忠実な、まことの証人、神に造られたものの根源であるかたが、次のように言われる。



 もう一つは、文脈のコロサイ 1:18に書かれている“初子”はどうなるのかということです。



コロサイ 1:18

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
そして彼は体である会衆の頭です。彼は初めであり,死人の中からの初子です。それは,彼がすべての事において最初の者となるためでした。



 コロサイ 1:15の“初子”を「創造物ではない」の意味にとるなら、コロサイ 1:18の“初子”も同様に扱うのが筋であるように思えます。しかし聖書の中でイエスは死んで復活しています。さらに、このコロサイ 1:18には同じことを別の言い回しで述べた句があります。



コリント第一 15:20-23

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
しかしながら,今やキリストは死人の中からよみがえらされ,[死の]眠りについている者たちの初穂となられたのです。死がひとりの人を通して来たので,死人の復活もまたひとりの人を通して来るのです。アダムにあってすべての人が死んでゆくのと同じように,キリストにあってすべての人が生かされるのです。しかし,各々自分の順位にしたがっています。初穂なるキリスト,その後,その臨在の間に,キリストに属する者たちです。



 コリント第一 15:20-23を見る限り、コロサイ 1:18の“初子”は字義通りに読まざるを得ないようです。

 さらに言うと、エホバの証人が繰り返し指摘するように、そもそもの話として、新約聖書を生み出した原始キリスト教はそのようなことを考えただろうか、という問題があります。原始キリスト教はキリストを字義通りの意味で神の子であり初子であり独り子であると考えていました。初子という表現に別の意味を見つけることはあったかもしれませんが、それによって元の意味を見失うことはなかったでしょう。
 元も子もないことをもっと言うと、コロサイ 1:15でキリストは“神の像(かたち)”とも呼ばれています。この表現の意味は「神に少し劣る」というものです。現代のキリスト教は三位一体の神学に基づいてこの表現の意味を読み替えて「神と全く同じ」という意味にし、よってキリストは神に等しく、神であるということにしていますが、それは原始キリスト教の考え方ではありません。



創世記 1:26-27

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
次いで神は言われた,「わたしたちの像に,わたしたちと似た様に人を造り,彼らに海の魚と天の飛ぶ生き物と家畜と全地と地の上を動くあらゆる動く生き物を服従させよう」。そうして神は人をご自分の像に創造してゆき,神の像にこれを創造された。男性と女性にこれを創造された。

詩編 8:5-8 (新共同訳では 8:6-9)

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
あなたはまた,[人]を神のような者たちより少し劣る者とし,次いで栄光と光輝を冠としてこれに添えられました。あなたはこれにご自分のみ手の業を支配させ,すべてのものをその足の下に置かれました。小家畜や牛,それらすべて, さらに,原野にいる獣,天の鳥,海の魚, 海路を通って行くものを。



 2つめの方法は、文脈のコロサイ 1:16-17に注目し、矛盾を解消するという方法です。
 ここでは便宜的にバルバロ訳を引用します。



コロサイ 1:15-17

◇ バルバロ訳聖書 ◇ (カトリック)
子は目に見えぬ神の姿であって、すべての被造物の長子である。万物は子によって創られたからである。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、見えないもの、玉座も、主権も、権勢も、能力も、みな子によって子のために創られた。子は万物の先に存在し、万物は子によって存在する。



 創造物についての表現を整理すると、次の3つの表現になります。「キリストは全創造物の初子である」、「キリストは全創造物を創った」、「キリストは全創造物の前に存在した」。1つめは残りの2つと矛盾します。この矛盾を解決するには、1つめの表現の“初子”の意味を読み替えなければなりません。



◇ ESV STUDY BIBLE, コロサイ 1:16の注釈

イエスは創造物の初めにはなることができなかった。なぜなら“全創造物”はその一切が彼によって創造されたからである。



 ところがこの方法にも問題があります。コロサイ 1:15-17の表現は、英語や日本語の言語感覚では矛盾した表現ですが、聖書のギリシャ語の言語感覚では特に矛盾していない表現のようです。聖書ギリシャ語の感覚では、矛盾を解消するために“初子”の意味を読み替える必要はないようです。
 この、ギリシャ語の言語感覚ということを理解するために、日本語における「ひろし君とクラスのみんな」という表現について考えてみましょう。日本語の感覚では、このように述べた場合、ひろし君がクラスの一員であっても何ら矛盾は感じません。文意を杓子定規に考えるなら、「ひろし君」は「と」という言葉によって「クラスのみんな」と分離されているのでひろし君はクラスの一員ではありえないなどと考えることができますが、実際にそう考える人はいないでしょう。さて、このひろし君はクラスの優等生で、クラスを代表して教壇に立ちクラスの生徒全員に演説をしているところです。この時誰かが、ひろし君はクラスの生徒になることはできなかった、なぜならひろし君は“クラスの生徒全員”に話しかけていたからだ、と解説を述べるとするなら、どうでしょうか。
 この、ギリシャ語の感覚ということについては、コロサイ 1:16-17の項と「ギリシャ語パースと救いの概念」に詳しく書いていますので参照ください。

 ここで、キリスト教世界にとって非常に気になるのが新世界訳聖書の訳文です。



コロサイ 1:15-17

◇ 新世界訳参照資料付き聖書英語版 (NW/Reference Bible) ◇ (エホバの証人)
He is the image of the invisible God, the firstborn of all creation; because by means of him all [other] things were created in the heavens and upon the earth, the things visible and the things invisible, no matter whether they are thrones or lordships or governments or authorities. All [other] things have been created through him and for him. Also, he is before all [other] things and by means of him all [other] things were made to exist, and he is the head of the body, the congregation. He is the beginning, the firstborn from the dead, that he might become the one who is first in all things;

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
彼は見えない神の像であって,全創造物の初子です。なぜなら,[他の]すべてのものは,天においても地においても,見えるものも見えないものも,王座であれ主権であれ政府であれ権威であれ,彼によって創造されたからです。[他の]すべてのものは彼を通して,また彼のために創造されているのです。また,彼は[他の]すべてのものより前からあり,[他の]すべてのものは彼によって存在するようになりました。



 新世界訳聖書は“すべてのもの”のところで、“[他の]すべてのもの”という訳出を行っています。これは、見方によっては、今扱っているところの矛盾を別の方法で解決したもののようであるように思えます。その結果、イエスが神の初子であってもなんら問題ないということを伝えているように見えます。

 キリスト教世界は新世界訳聖書のこの訳文に対して強く反発しています。この訳文が三位一体論を否定するものであるように見えるからです。



◇ 「ものみの塔の新世界訳聖書は改ざん聖書」, 正木弥 (表記修正)

この数節のうちで、ギリシャ語本文には4回のπανταまたはその活用形が出て来て、その逐語訳ではすべて"all (things)"と訳されています。ところが、新世界訳では、判で押したように"all [other] things"と"other"をつけ加えているのです。勿論これは意図的挿入であって、改ざんです。「すべてものは・・・彼によって創造された」を「[他の]すべてのものは・・・彼によって創造された」に変えて、どういう違いが出てきたでしょうか。ここで"彼"とは "み子"のことです。前者(変える前)だと文句なしにみ子は万物の創造者ですが、後者(変えた後)でも、一見、み子はみ子以外のものすべての創造者であって、実質的違いがないように見えます。しかし、後者では、[他の]すべてのものの創造者はみ子であるものの、み子自身の創造者が別に存在するかのように思わせる書き方なのです。つまり、み子は[他の]すべてのものと同じレベルでとらえられ、み子も創造されたものの一員であるかのように思わせられ、[他の]すべのものの創造者はみ子であるが、み子についてはその創造者が誰か外にいるかのように、思わせるのです。(言外に、み子の創造者は神であって、み子も創造された存在なのだ、と言おうとしているようです。しかし、み子は創造されたのではなく、生まれた方なのです。)新世界訳では、み子と[他の]すべてのものとの違いは、創造者か、創造されたものか、ではなく、いずれも創造されたものであることにおいて同じであるが、創造した者が誰であるかの違いなんだよ、と言おうとしていることになります。[他の]という一つの単語を挿入することによってこのような変化が生じました。一見"たいした違いはない"と思わせるのですが、実は、重大かつ深刻な違いをもたらしているのです。巧妙なごまかしではないでしょうか。



 とはいえ、私としては、このような非難は的外れのように思えます。コロサイ 1:16-17の項で例文を示しながら説明していますが、新世界訳聖書の訳文において挿入された「他の」の語は、認知ということが先行しているため、文意を変えるほどの力を持ちません。新世界訳聖書の“[他の]すべてのもの”という表現は、基本的にはイエスがイエス以外のものを創造したという至極当然のことを述べています。それ以外の細かいニュアンスについてはコロサイ 1:15の文意に従うということです。この訳文は、コロサイ 1:15においてイエスが初子であるならそれに調和した意味になりますし、初子でないならやはりそれに調和した意味になります。
 ためしに、新共同訳のコロサイ 1:15と新世界訳聖書のコロサイ 1:16-17の訳文をつなげたらどうなるかを考えてみてください。



コロサイ 1:15-17 新共同訳聖書の訳文と新世界訳聖書の訳文をつなげた場合

御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。なぜなら,他のすべてのものは,天においても地においても,見えるものも見えないものも,王座であれ主権であれ政府であれ権威であれ,彼によって創造されたからです。他のすべてのものは彼を通して,また彼のために創造されているのです。また,彼は他のすべてのものより前からあり,他のすべてのものは彼によって存在するようになりました。



 このあたりの論争がややこしくなる原因の一つに、エホバの証人とその聖書に対するキリスト教世界の態度、ということがあると思います。エホバの証人はこの句について『聖書の意味を変えようとして訳語を加えました』などということは言っていません。彼らとしては『原典の意味はこうでありそれを正確に訳出するために訳語を適切に補いました』と言っているにすぎません。ところが、キリスト教世界は常日頃からエホバの証人の言うことを曲解してきました。新世界訳聖書の訳文を見て、自分たちの聖書との違いを発見し、エホバの証人による説明を読むと、その説明に対する変換作業を行って『エホバの証人は聖書の意味を変えようしてこのように訳文を改竄した』ということにしてしまうということを繰り返してきたのです。
 こんなことばかりしているとものの感覚が狂います。この句においてエホバの証人は聖書の意味を変えてはいません。

 岩波書店訳聖書はコロサイ 1:15をきわめて明瞭に訳出しています。



コロサイ 1:15

◇ 岩波書店訳聖書(新約聖書翻訳委員会訳聖書) ◇ (エキュメニカル)
この方は見えざる神の形姿。あらゆる創造の〔内で〕最初の誕生者



 聖書原典の意味を厳密に伝えるために聖書の訳文に補語を加えることはよいことであり歓迎されるべきことです。岩波書店訳聖書はここで“〔内で〕”という語を加えています。そうすることで、現代のキリスト教において普通に主張されているようなキリストは創造物には含まれないという論理はここで成立しない、ということを示しています。もしこの考えに例の変換作業を適用するなら、岩波書店の翻訳者は聖書の意味を変えようとして訳文に“〔内で〕”という語を加えたのだ、ということになってしまいますが、これはそういう話ではないはずです。