新世界訳
エホバの証人の聖書

ホーム >> NEW TESTAMENT >> コリント第一 10:4



コリント第一 10:4

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
みな同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らはいつも,自分たちに付いて来た霊的な岩塊から飲んだのです。その岩塊はキリストを表わしていました。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。

◇ 新改訳聖書 [2017年版] ◇ (ファンダメンタル)
みな、同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らについて来た霊的な岩から飲んだのです。その岩とはキリストです。



 エホバの証人統一協会対策香川ネット正木弥氏による「ものみの塔の新世界訳聖書は改ざん聖書」は新世界訳聖書の訳を批判しています。



◇ 「ものみの塔の新世界訳聖書は改ざん聖書」, 正木弥 (表記修正)

逐語訳で「the rock-mass…was the Christ」とあるのを変えて、「that rock-mass meant the Christ」としてあります。ところで、申命記32:4、15、18によれば”岩(塊)”とは主なる神のことです。ですから、ここで「岩(塊)とはキリストでした」と訳すと、神=キリストとなってしまいます。それでは、"キリストは神ではない"としているエホバの証人にとって都合が悪いので、直接的表現ではない言葉に変えたのでしょう。自分たちの教理のほころびを繕うために聖書を変えるのは本末転倒ですね。



 また、「フリーマインドジャーナル」1994年5-6月号に掲載された「新世界訳聖書における改竄」はこのように述べています。



◇ 'Misleading Revisions in the New World Translation' Andy Bjorklund, Free Minds Journal May/Jun 1994

「その岩はキリストである」が「その岩塊はキリストを意味していた」に差し替えられている。この節は、受肉前のキリストが、幾世紀も昔に、その神性を現されたことを描写している。この改竄は、「岩」の持つ比喩的な意味合いを強化することにより、キリストの代々にわたる神性を隠蔽しようとするものである。



 これらの文書は、エホバ神とイエス・キリストの同一性を問題にしています。新共同訳や新改訳の訳文ではこの同一性が明瞭なのに対し、新世界訳聖書の訳文は曖昧です。
 現代のほとんどのキリスト教では、神とキリストの関係を正しく説明するとされる“三位一体”の教理が重んじられています。三位一体の教えによると、神は神ですが、キリストもまた神です。一方、エホバの証人は三位一体の教理を受け入れていません。こうして、翻訳された聖書に三位一体の教理がどれほど反映されるかについての教派的対立が生じることになります。

 エホバの証人は、新世界訳聖書の訳には何の問題もないと述べています。ここで用いられているギリシャ語エイミには「意味する」の用法があるからです。
 エホバの証人はその例として、マタイ 26:26やマタイ 12:7などを挙げています。私のこのサイトでもヨハネ 17:3などが挙げられています。



マタイ 26:26

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
彼らが食事を続けていると,イエスはパンを取り,祝とうを述べてからそれを割き,弟子たちに与えて,こう言われた。「取って,食べなさい。これはわたしの体を表わしています」。

マタイ 12:7

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
しかし,『わたしは憐れみを望み,犠牲を[望ま]ない』ということの意味を理解していたなら,あなた方は罪科のない者たちを罪に定めたりはしなかったでしょう。

ヨハネ 17:3

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
彼らが,唯一まことの神であるあなたと,あなたがお遣わしになったイエス・キリストについての知識を取り入れること,これが永遠の命を意味しています



 こういった句では、“AはBです”と訳しても“AはBを表しています”と訳しても実質的な違いはないように思えます。人は「岩はキリストです」という言葉を読めばそれを頭の中で「岩はキリストを意味しています」とか「岩はキリストを表しています」に変換するでしょう。岩が文字通りキリストであるということは考えられないからです。何か大きな違いが生じるとは思えません。

 ただ、三位一体論者にはこの聖句を用いる時に読者の錯覚に頼る傾向があって、新世界訳聖書の訳文ではそのトリックが使いにくいということが問題になるようです。「岩はキリストです」という表現は、「岩」をダイレクトに「エホバ」に変換すると「エホバはキリストです」という表現になります。この時、新世界訳聖書の訳文をベースにすると、「表わしている」が邪魔になるというわけです。

 




 この聖句は、かつてモーセがイスラエルを導いたとき、水不足を解決するために岩から水を出す奇跡を行った出来事をモチーフにしています。まずはこの記述を二つ見てみましょう。
 一つ目は、モーセがイスラエルを荒野で導いた40年の始めごろの出来事です。



出エジプト記 17:1-7

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
その後イスラエルの子らの全集会はシンの荒野を出発して,一行程ずつ[進んで行った]。それはエホバの命令にしたがって進んだものである。こうして彼らはレフィディムに宿営することになった。ところが,そこには民の飲む水がなかった。
それで民はモーセと言い争うようになって,「わたしたちに水を与えて飲ませてほしい」と言った。しかしモーセは彼らに言った,「なぜあなた方はわたしと言い争うのですか。どうしてエホバを試みつづけるのですか」。しかし民はそこでしきりに水を渇望し,民は幾度もモーセにつぶやいてこう言った。「わたしたちをエジプトから連れ出して来て,わたしたちも子らや畜類も共に渇きのために死なせるとはどういうわけなのか」。ついにモーセはエホバに叫んで言った,「わたしはこの民をどうすればよいのでしょうか。もう少しすれば,彼らはわたしを石打ちにすることでしょう」。
するとエホバはモーセにこう言われた。「民の前を通ってイスラエルの年長者のうちから幾人かを連れて行き,またあなたがナイル川を打った杖を[取り]なさい。それを手に取って進んで行くように。見よ,わたしはそこの,ホレブの岩の上であなたの前に立つ。そしてあなたはその岩を必ず打つように。すると水がそこから出て,民はそれを飲むことになる」。その後モーセはイスラエルの年長者たちの見るところでそのとおりに行なった。それで彼はその場所の名をマッサ,またメリバと呼んだ。イスラエルの子らが言い争ったため,また彼らが,「エホバはわたしたちの中におられるのかおられないのか」と言ってエホバを試みたためである。



 ここには、“言い争い”と“試み”を意味する“メリバ”また“マッサ”という表現も出てきます。これはあとで出てきますので覚えておいてください。

 二つ目は、40年の終わりごろの出来事です。ここでは、モーセがエホバに対して大きな罪を犯すという事件が生じます。



民数記 20:2-13

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
さて,その集会の者たちのために水がなかった。そのため彼らは集合してモーセとアロンに逆らうようになった。そして民はモーセと言い争って,こう言いだした。「わたしたちの兄弟たちがエホバの前で息絶えた時に,わたしたちも息絶えていればよかった。一体どうしてあなた方はエホバの会衆をこんな荒野に連れ込んで,わたしたちとその駄獣をここで死なせるのか。一体どうしてあなた方はわたしたちをエジプトから導き出して,こんなひどい場所に連れ込んだりするのか。ここは種もいちじくもぶどうもざくろもできない所だ。飲む水さえないではないか」。それでモーセとアロンは会衆の前から離れ,会見の天幕の入口のところに来てひれ伏した。すると,エホバの栄光が彼らに現われはじめた。
次いでエホバはモーセに話してこう言われた。あなたとその兄弟アロンは,杖を取って,集会を呼び集めよ。そしてあなた方は彼らの目の前で大岩に向かって話し,それがまさに水を出すようにしなければならない。あなたは彼らのためにその大岩から水を出し,集会の者たちとその駄獣とに飲ませるのである」。
それでモーセは命じられたとおりにエホバの前から杖を取った。その後モーセとアロンは会衆をその大岩の前に呼び集め,次いで彼はこう言った,「さあ聞け,反逆の者たち! この大岩からわたしたちはあなた方のために水を出すのか」。そうしてモーセは手を掲げ,自分の杖でその大岩を二度打った。すると,沢山の水が出て来て,集会の者たちとその駄獣はそれを飲みだした。
後にエホバはモーセとアロンにこう言われた。「あなた方がわたしに信仰を示さず,イスラエルの子らの目の前でわたしを神聖なものとすることを怠ったゆえ,それゆえに,わたしが必ず彼らに与えるその土地に,あなた方がこの会衆を携え入れることはないであろう」。これがメリバの水である。イスラエルの子らがエホバと言い争い,それによって[神]が彼らの中で神聖なものとされたためである。



 この時モーセは、神に対する不敬の罪を犯したため、罰として、神がイスラエルに与えると約束した“乳と蜜の流れる約束の地”への移住を禁じられます。

 ところであなたはこう反論されるかもしれません。聖書にはモーセがどんな不敬を犯したか書かれていないようですが。不敬の罪を犯したのはモーセじゃなくてイスラエルの民じゃないんですか?
 この問いの答えを示しているのが、この出来事のしばらく後にモーセが歌った次の歌です。



申命記 32:4, 15, 18

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
岩なる方,そのみ業は完全,そのすべての道は公正である。忠実の神,不正なところは少しもない。義であり,廉直であられる。
だが,肥え太ってくると,エシュルンはけり足を挙げた。あなたは肥え太り,肥満し,飽食した。そして彼は神を,自分を造ってくださった方を捨て,自分の救いの岩を軽んじた。
あなたの父となった岩なる方をあなたは忘れた。あなたは神を記憶から去らせるようになった。子を産む苦しみをもってあなたを産み出されたその方を。



 ここでモーセはエホバのことを「岩なる方」と呼んでいます。この言い方は『エホバは岩である』という言い方です。
 この表現はこの時に初めて出てくるので、一見すると、この表現はこの時にモーセによって考案されたように思えます。しかし、もしもそうではなくて、それ以前からエホバが「岩なる方」と呼ばれていたとすればどうでしょうか。
 聖書にはこのことを示す聖句があります。それが、この文書の主題になっているコリント第一 10:4です。



コリント第一 10:4

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
みな同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らはいつも,自分たちに付いて来た霊的な岩塊から飲んだのです。その岩塊はキリストを表わしていました。



 聖書はエホバのことを「岩塊」と呼び、それが「付いて来た」と言っています。言い回しから解るように、この節はモーセが岩を杖で叩いて水を出した二つの出来事を述べていますが、そこで「付いて来た」ということ言っているのですから、40年の間、岩はエホバと見なされていたということが解ります。
 岩が「付いて来た」という表現は、聖書以外に、ユダヤ教のラビ文書にも見つかるそうで、このことからも、イスラエル人が早いころからエホバのことを岩と呼んでいたことが伺えます。

 モーセの罪は、岩を杖で叩いたというところにあります。最初の出来事では、水を出した岩はまだ“ただの岩”だと考えられていました。その後、その出来事にちなんでエホバは“岩”と呼ばれるようになり、こうして岩はエホバであるということになりました。そこで最後の出来事があった時には、岩は“ただの岩”からエホバに昇格していたのです。
 エホバはモーセに「大岩に向かって話しなさい」と命じています。岩はエホバを表しているのですから、もう杖で叩くというような失礼なことはできません。モーセはエホバに対するように恭しく岩に話しかけ、懇願し、水を出してもらわなければなりませんでした。ところがモーセはその命令を無視して岩を、言い換えるならエホバの顔を杖で叩いてしまったのです。これはまさしく大事件です。

 ちなみに、モーセはこの時エホバに対する3つの罪を犯しています。今述べているのは2番目に大きな罪です。エホバの証人なら、ものみの塔出版物にあるこのような記述を思い起こすでしょう。



◇ 「ものみの塔」誌1987年10月15日号, ものみの塔聖書冊子協会

読者からの質問 : モーセは約束の地に入る特権を失うほどのどんな過ちを犯したのですか。その過ちとは,岩に向かって話すだけでよかったのに,そうしないで岩を打ったということですか,それとも,エホバ神の栄光をたたえなかったということですか。

モーセの犯した過ちは,神の指示どおり岩に向かって話す代わりに岩を打ったというだけのことではないように思われます。
……神は『大岩に向かって話す』ようモーセとアロンに指示されたのに,彼らが『大岩を打った』ことに注目した人もいました。エホバはその違いのために大変不快に感じられ,モーセとアロンがイスラエルを約束の地に導き入れることはないと二人に告げられたのでしょうか。そうではないようです。
……モーセはけんか腰の民に対して,「この大岩からわたしたちはあなた方のために水を出すのか」と言いました。詩編 106編33節を読むと,その点に関する洞察が得られます。というのは,その聖句はモーセが苦々しい霊に動かされて行動したこと,また『その唇で性急に話した』ことを明らかにしているからです。モーセは怒りを口に出し,実際に奇跡を起こして水を供給できる方にではなく,かえって自分自身とアロンのほうに注意を向けました。それで,約束の地の境界でモーセが死ぬ少し前に,神はカデシュ・バルネアでの出来事に言及し,モーセの過ちは『民の目の前で神を神聖なものとする』のを怠ったことであると述べられました。―民数記 27:12-14。



 モーセが「エホバが水を」と述べる代わりに「わたしたちが水を」と述べてしまった点が強調されていますが、これは3番目に大きな罪です……。

 さてここで、一つの相違点があることに気づいた方がおられるかもしれません。モーセが水を出した「岩」は実際の岩を意味していますが、コリント第一 10:4で述べられているのは「霊的な岩」だというところです。ややこしい話ですが、「霊的な岩」は実際の岩ではありません。いったい、いつどこで何がすり替わったのでしょうか。

 モーセがイスラエルを導いた時代が過ぎると、エホバが岩であるというテーマは霊的な意味へと発展していくことになります。その解りやすい例として詩編 78編とエレミヤ 2:13を挙げることができるでしょう。



詩編 78:15-20,32-35

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
次いで,荒野の岩を裂かれた。水の深みのように,[彼らに]存分に飲ませるためであった。大岩から流れを出させ,水を川のように下らせるのであった。それでも,彼らは水のない地域で至高者に反逆することにより,なおも[神]に対して罪をおかし続けた。次いで,彼らは自分の魂のために食べるものを求めることにより,心のうちで神を試すのであった。こうして,彼らは神に逆らって話しはじめた。彼らは言った,「神は荒野に食卓を整えることができるのか」と。見よ,[神]はを打たれた。水が流れ,奔流があふれ出るためであった。「[神]はまた,パンも与えることができるのか。また,その民のために糧食を備えることができるのか」。
このすべてにもかかわらず,彼らはなおも罪を犯し,そのくすしいみ業に信仰を置かなかった。それで,[神]は彼らの日々をあたかも呼気でもあるかのように終わらせ,彼らの年を騒乱によって[終わらせた]。[神]が彼らを殺すたびに,彼らも[神]を尋ね求め,帰って来て,神を捜し求めた。そして,神が自分たちのであること,至高者なる神が自分たちのために復しゅうをしてくださる方であることを思い出すのであった。


エレミヤ 2:13

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
『わたしの民の行なった二つの悪事があるからである。彼らは自分たちのために水溜めを,それも,水を入れておくことのできない壊れた水溜めを切り掘ろうとして,生ける水の源であるこのわたしを捨てたのだ』。



 詩編 78編の引用部分を見ると、当初の「岩」は文字通りの「岩」ですが、後のほうの「岩」はそうではなくなっています。エレミヤ 2:13では、「岩」が「生ける水の源」と言い換えられていて、霊的な意味に転換しています。
 このような変化が示しているのは、ちょうどイスラエルが、肉においては水を生み出す岩を必要としたように霊においては霊の水を生み出すエホバを必要としたという考え方の台頭です。

 このような考え方は、キリスト教においてさらに発展することになります。



ヨハネ 4:10, 14

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
イエスは答えて彼女に言われた,「もしあなたが,神の無償の賜物について,そして,『わたしに飲ませてほしい』と言っているのがだれであるかを知っていたなら,あなたはその者に求めたでしょうし,その者はあなたに生きた水を与えたことでしょう」。
だれでもわたしが与える水を飲む人は,決して渇くことがなく,わたしが与える水は,その人の中で,永遠の命を与えるためにわき上がる水の泉となるのです」。


ヨハネ 7:37-39

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
さて,最後の日,祭りの大いなる日に,イエスは立っておられたが,叫んでこう言われた。「だれでも渇いている人がいるなら,わたしのところに来て飲みなさい。わたしに信仰を持つ者は,まさに聖書が言ったとおり,『その内奥のところから生きた水の流れが流れ出る』のです」。しかしこれは,彼に信仰を持つ者が受けようとしていた霊について言われたのである。まだ霊がなかったからであり,それは,イエスがまだ栄光を受けていなかったためである。



 イエスがこのように語ったことにより、これまで一貫してエホバになぞらえられていた「岩」に新たな適用が見いだされるようになりました。つまり、「岩」によって表されていたものがエホバからキリストに変化していったわけです。こうして聖書は、今テーマとなっているコリント第一 10:4の概念と表現に到達することになります。

 ここで聖書が、三位一体論者が考えるように、実体において「岩=エホバ=キリスト」であるということを言っているのでないことは明らかです。岩はその果たした役割のゆえに、あるときにはエホバに、またあるときにはイエスにもなぞらえられるということです。こうして、エホバとイエスは共に「霊的な岩」となりました。ここに示されているのは、エホバとイエスの果たす役割の同一性であって、実体の同一性ではありません。神の子であるイエス・キリストの神性が示されているということです。

 そして、キリスト教においてこの概念はまたさらに拡張されることになります。
 ここで、最初のほうで出てきた“メリバ”また“マッサ”という表現を思い起こしてください。岩の概念の変容につられて、この表現も意味が発展していきます。



詩編 95:7-11

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
この方はわたしたちの神,わたしたちはその放牧地の民,そのみ手の羊だからである。今日,もしあなた方がその声を聴いたなら,メリバにおけるように,荒野のマッサの日におけるように心をかたくなにしてはならない。そのとき,あなた方の父祖たちはわたしを試した。彼らはわたしを調べ,またわたしの働きを見た。わたしは四十年間[その]世代に対して嫌忌の念を抱きつづけ,そして言うようになった,「彼らは心の定まらない民である。 彼ら自身はわたしの道を知るに至らなかった」と。彼らに関して,わたしは怒りのうちに誓った,「彼らにはわたしの休み場に入らせない」と。

ヘブライ 3:1-19 (書き入れあり)

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
そのようなわけで,聖なる兄弟たち,天の召しにあずかる人たちよ,わたしたちが[信仰を]告白する使徒また大祭司,イエスを思い見なさい。彼は[C]自分をそのようにした方(つまりエホバ)に対して忠実でした。モーセもまたその方の家全体にあって[忠実で]あったのと同じです。[家]を造る者がその家よりも誉れを受けるからには,その方はモーセ以上の栄光に値するとみなされるからです。言うまでもなく,家はすべてだれかによって造られるのであり,[A]すべてのものを造られたのは神です。そして,[D]モーセは(エホバの家の)従者として,その方の家全体にあって忠実であり,後に語られる事柄の証しとなりましたが,[C]キリストはその方(エホバ)の家の上に立つ子として[忠実でした]。はばかりのないことばと希望にかかわる誇りとを終わりまでしっかりと堅く保つなら,[B]わたしたちはその方(エホバ)の家となるのです。
それゆえ,聖霊が述べるとおりです。「今日,もしこの方の声を聴いたら,あなた方は,苦々しい怒り(つまりメリバ)を引き起こした時のように,荒野で試した(つまりマッサの)日のように心をかたくなにしてはならない。そこであなた方の父祖たちは試みをもってわたしを試した。しかもそれはわたしの業を四十年のあいだ見たのちのことであった。そのためわたしはこの世代に嫌悪を覚えて,こう言った。『彼らの心は常に迷い,彼ら自身はわたしの道を知るに至らなかった』。それでわたしは怒りのうちに誓った,『彼らにはわたしの休みに入らせない』と」。
兄弟たち,あなた方のうちのだれも,生ける神から離れて,信仰の欠けた邪悪な心を育てることがないように気をつけなさい。むしろ,「今日」ととなえられる限り日ごとに勧め合い,あなた方のだれも,[人を]欺く罪の力のためにかたくなになることのないようにしなさい。初めに抱いた確信を終わりまでしっかりと堅く保ってはじめて,わたしたちは本当にキリストにあずかる者となるのです。もっともそれは,「今日,もしこの方の声を聴いたら,あなた方は,苦々しい怒りを引き起こした時のように心をかたくなにしてはならない」と言われている間のことです。
聞いたのに苦々しい怒りを起こさせたのはだれでしたか。実に,モーセのもとにエジプトを出たすべての人たちではありませんでしたか。また,[神]はだれに対して四十年のあいだ嫌悪を覚えられたのですか。罪をおかして,その死がいが荒野に倒れた人たちに対してではありませんでしたか。また,[神]は,ご自分の休みに入らせないということを,不従順に行動した人たち以外のだれに対して誓われたでしょうか。こうしてわたしたちは,彼らが信仰の欠如のゆえに入れなかったことを知るのです。



 ここには、[A]家の建築家である神と、[B]家であるクリスチャンと、[C]家の責任者であるイエスと、[D]家の従者であるモーセが出てきます。これは、従来「岩」で示されていた一つの役割が分割されて、その結果「岩」という表現が使われなくなった事例だと言えます。このことから、「岩はエホバである」とか「岩はキリストである」という聖書の言い回しがおおざっぱなものであり、それゆえに両者の同一性が認められるということが解ります。

 




 ここで、私見となりますが、この聖句にはもう一つの隠された意味があるということを指摘したいと思います。

 聖書の中には、神が人の前に現れて、人がエホバ神を見たり会話をしたりしたという記述がいくつも見られます。ところが、これらの記述をよく読んでいくと、このような時のエホバは実際にはエホバではなくてエホバの役をする天使に過ぎないらしい、ということに気づかされます。そのわかりやすい例として創世記 31:11-13が挙げられるでしょう。ほかにも、少しわかりにくいですが、創世記 18章があります。ここで「人」とされているのはおそらく人の姿をまとった天使のことで、その一人がエホバだということになっています。エホバ自身は人の姿をまとうことがないので、そこから、このエホバが天使であったことが解ります。



創世記 31:11-13

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
そのとき[まことの]神のみ使いが夢の中でわたしに向かって『ヤコブよ』と言い,わたしは『はい,ここにおります』と言った。すると彼はこう続けた。『どうかあなたの目を上げて,群れの上に跳び掛かっている雄やぎがすべてしまのあるもの,ぶちのもの,はん点のあるものであるのを見なさい。わたしは,ラバンがあなたに行なっていることをすべて見たのである。わたしはベテルの[まことの]神である。あなたはそこで柱に油をそそぎ,そこでわたしに誓約を立てた。今,身を起こしてこの地を去り,あなたの生まれた土地に帰りなさい』」。

創世記 18:1-3,22

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
後にエホバはマムレの大木林で彼に現われた。それは,昼の暑いころ,彼が天幕の入口に座っていた時のことであった。彼が目を上げて見ると,自分から少し離れたところに三人の人が立っているのであった。それを見かけると,彼はその人たちを迎えるため天幕の入口から走り出て,地に身をかがめた。そうしてこう言った。「エホバよ,もし今,私があなたの目に恵みを得ておりましたら,どうかこの僕のところを素通りなさらないでください。
……ここでその人々はそこから向きを転じてソドムの方へ進んで行った。しかしエホバのほうはなおもアブラハムの前に立っておられた。



 原始キリスト教の担い手たちは、この点に気づき、それを受け入れていたようです。このことを示しているのがヨハネ 1:18です。



ヨハネ 1:18

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
いまだ神を見た人はいない。父に対してその懐[の位置]にいる独り子の神こそ,彼について説明したのである。



 聖書にエホバの出現が書かれているにもかかわらず「いまだ神を見た人はいない」と述べられているわけですが、ここから、原始キリスト教では“エホバの役をする天使”の教えが正しい教えとして受け入れられていたことが解ります。
 それだけではありません。続いて「父に対してその懐[の位置]にいる独り子の神こそ,彼について説明したのである。」とあります。このことから、原始キリスト教では、エホバの役をする天使の正体はイエス・キリストであるとされていたことが解ります。

 ヨハネ 1:18はヨハネ1:1の言葉の説明です。



ヨハネ 1:1

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
初めに言葉がおり,言葉は神と共におり,言葉は神であった。



 ヨハネ 1:1の言葉は非常に難解だとされ、これまで様々な推論が示されてきました。しかし、その説明であるヨハネ 1:18の意味が判明すれば、問題は根本的に解決します。
 ここで「言葉」と呼ばれているのはイエスです。ですからこの句は、「言葉は神であった」と述べた時、「イエスは神の役をする天使の正体だった」と述べていることになります。

 そうすると、コリント第一 10:4も同じ意味に読まなければなりません。つまり、もともとモーセの時代にエホバが「岩」として現れた時、実はその正体はイエスだった、ということになります。

 




 では、最後に、モーセの罪の話をしたいと思います。

 すでに述べたように、モーセは3つの重大な罪を犯しました。そのうち、2番目と3番目は言及済みです。そうすると、1番目は何でしょうか。
 たいへん困ったことに、私は、いまだに誰からもこの答えを教えてもらったことがありません。本で読んだこともありません。今ネットで検索を行っても、答えは見つかりません。専門書は、この疑問には多くの人が取り組んできたが未だに未解決のままである、と情けないことを述べています。この件はもう3000年くらい未解決のままらしいです。
 エホバの証人の方々にも、この答えを知ろうと努力している方がたくさんおられます。しかし、誰かが答えを発見したという報告はありません。
 私はこの件の答えをここに書くことにしました。今日*、この文書の公表をもって、この問題は決着します。(*この文書は2018年3月23日に公表されました。)

 では、まずは問題の記述を見ることにしましょう。



民数記 20:2-13

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
さて,その集会の者たちのために水がなかった。そのため彼らは集合してモーセとアロンに逆らうようになった。そして民はモーセと言い争って,こう言いだした。「わたしたちの兄弟たちがエホバの前で息絶えた時に,わたしたちも息絶えていればよかった。一体どうしてあなた方はエホバの会衆をこんな荒野に連れ込んで,わたしたちとその駄獣をここで死なせるのか。一体どうしてあなた方はわたしたちをエジプトから導き出して,こんなひどい場所に連れ込んだりするのか。ここは種もいちじくもぶどうもざくろもできない所だ。飲む水さえないではないか」。それでモーセとアロンは会衆の前から離れ,会見の天幕の入口のところに来てひれ伏した。すると,エホバの栄光が彼らに現われはじめた。
次いでエホバはモーセに話してこう言われた。あなたとその兄弟アロンは,杖を取って,集会を呼び集めよ。そしてあなた方は彼らの目の前で大岩に向かって話し,それがまさに水を出すようにしなければならない。あなたは彼らのためにその大岩から水を出し,集会の者たちとその駄獣とに飲ませるのである」。
それでモーセは命じられたとおりにエホバの前から杖を取った。その後モーセとアロンは会衆をその大岩の前に呼び集め,次いで彼はこう言った,「さあ聞け,反逆の者たち! この大岩からわたしたちはあなた方のために水を出すのか」。そうしてモーセは手を掲げ,自分の杖でその大岩を二度打った。すると,沢山の水が出て来て,集会の者たちとその駄獣はそれを飲みだした。
後にエホバはモーセとアロンにこう言われた。「あなた方がわたしに信仰を示さず,イスラエルの子らの目の前でわたしを神聖なものとすることを怠ったゆえ,それゆえに,わたしが必ず彼らに与えるその土地に,あなた方がこの会衆を携え入れることはないであろう」。これがメリバの水である。イスラエルの子らがエホバと言い争い,それによって[神]が彼らの中で神聖なものとされたためである。



 注目してもらいたいのは「エホバの前」という表現です。ここには2回「エホバの前」という表現が出てきますが、2回目の「エホバの前」の意味は何でしょうか。
 答えは、この出来事の直前の出来事を記した記述の中にあります。



民数記 16:1-17:11 (新共同訳では 16:1-17:25)

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
その後,レビの子コハトの子であるイツハルの子コラが,エリアブの子のダタンとアビラム,およびペレトの子オン,すなわちルベンの子らと共に立ち上がった。そして彼らは,すなわち彼らとイスラエルの子らのうちの二百五十人はモーセの前に立ち上がった。それらは集会の長たる者たち,集まりに呼ばれた者,名ある人々であった。そうして彼らはモーセとアロンに敵して集合し,そのふたりに対してこう言った。「あなた方のことはもう沢山だ。集会全体はそのだれもが聖なる者であり,エホバはその中におられるのだ。それなのに,どうしてあなた方は自分をエホバの会衆の上に高めるのか」。
それを聞いて,モーセは直ちにひれ伏した。それから,コラおよび彼の全集会に話してこう言った。「朝になれば,エホバは,だれがご自分に属し,だれが聖なる者で,だれがご自分に近づくべきかをお知らせになります。だれでもそのお選びになる者が近づくことになります。こうしてください。コラとその全集会の者は,それぞれ自分のために火取り皿を取り,明日,エホバの前でそれに火を入れ,その上に香を置いてください。エホバのお選びになる者,それが聖なる者ということになります。レビの子たち,あなた方についてはそれで十分です!」
モーセはさらにコラにこう言った。「レビの子たちよ,どうか聴いてください。イスラエルの神があなた方をイスラエルの集会から取り分けてご自分のもとに来させ,エホバの幕屋における奉仕を行ない,集会の前に立って彼らに仕えるようにさせたこと,そして,あなたを,またレビの子らであなたと共にいるあなたのすべての兄弟たちを近くに来させるということ,これはあなた方にとってそれほど小さな事なのですか。そのために,あなた方は,祭司職をも自分のものにしなければならないというのですか。これによって,あなたも,集い寄っているあなたの集会のすべての者も,エホバに対して逆らっているのです。アロンについても,彼がどうしたというのであなた方は彼に対してつぶやくのですか」。
後にモーセはエリアブの子のダタンとアビラムを呼びにやったが,彼らはこう言うのであった。「我々は上っては行かない! あなたは我々を乳と蜜の流れる地から連れ出して荒野で死なせようとする,これはささいな事だろうか。しかも我々に対して全く君のごとくに振る舞おうとする。実際,あなたは乳と蜜の流れる地に我々を携え入れてなどいない。それによって畑やぶどう園を相続地として与えてくれたわけでもない。あなたはあの人々の目をくじり取ろうとでもしているのか。我々は上っては行かない!」
これを聞いてモーセは非常に怒り,エホバにこう言った。「彼らの穀物の捧げ物には目を向けないでください。雄ろば一頭といえわたしは彼らから取り上げたことはなく,彼らの一人に害を加えたこともありません」。
それからモーセはコラに言った,「あなたとあなたの集会のすべての者,あなたと彼らとアロンとは,明日エホバの前に出なさい。そして,各々自分の火取り皿を取るように。あなた方はその上に香を置き,各自が自分の火取り皿を,二百五十の火取り皿をエホバの前に差し出さねばならない。あなたもアロンもそれぞれ自分の火取り皿を」。それで彼らは各々自分の火取り皿を取り,それに火を載せ,その上に香を置いて,モーセおよびアロンと共に会見の天幕の入口に立った。コラがその集会の全員を集め,会見の天幕の入口で彼らに向かわせると,その時エホバの栄光が集会全体に現われた。
次いでエホバはモーセとアロンに話してこう言われた。「この集会の中から離れよ。わたしが彼らを即座に滅ぼし絶やすためである」。これに対しふたりはひれ伏して,こう言った。「神よ,あらゆる肉なるものの霊の神よ,ただ一人の者が罪をおかすだけで,あなたは集会全体に対して憤られるのですか」。
するとエホバはモーセに話してこう言われた。「集会の人々に話して言いなさい,『コラ,ダタン,アビラムの幕屋の周りから離れよ!』と」。
その後モーセは立ってダタンとアビラムのところに行った。イスラエルの年長者たちも共に行った。そうして彼は集会の人々に話してこう言った。「どうか,これら邪悪な人々の天幕の前から離れてください。彼らに属するどんなものにも触れてはいけません。彼らのすべての罪に連なってぬぐい去られることのないためです」。直ちに彼らはコラ,ダタン,アビラムの幕屋の前から,そのすべての側から離れた。するとダタンとアビラムが出て来て,自分の天幕の入口に立ち,その妻また息子や幼い者たちも共に[立った]。
その時モーセは言った,「あなた方は,エホバがわたしを遣わしてこれらのすべての行為をさせていること,それがわたしの心によるものではないことを,これによって知るでしょう。すなわち,すべての人に臨む死と同じようにしてこれらの人たちが死に,すべての人に臨むその処罰をもって彼らに処罰が下されるのであれば,わたしを遣わしたのはエホバではありません。しかし,何か新たに造り出されたもの,それをエホバが造り出され,地面がその口を開いて彼らとそれに属するすべてのものとを呑み込み,彼らが生きながらシェオルに下ることになれば,そのときあなた方は,これらの人々がエホバに不敬に振る舞った,ということをはっきり知るのです」。
さて,[モーセ]がこれらのすべての言葉を話し終えるとすぐ,彼らの下の地面は二つに裂けはじめた。そして,地はその口を開いて,彼らとその家の者たち,またコラに属するすべての者とすべての貨財を呑み込んでいった。それで彼らと彼らに属するすべての者は生きながらシェオルに下り,地は彼らを上から覆っていった。こうして彼らは会衆の中から滅び去った。そして,周りにいたイスラエル人は皆,彼らの絶叫を聞いて逃げた。「地はわたしたちまで呑み込むかもしれない!」と言いだしたのである。さらに,火がエホバのもとから出て,香をささげていた二百五十人を焼き尽くしていった。
その時エホバはモーセに話してこう言われた。「祭司アロンの子エレアザルに,猛火の中からそれらの火取り皿を取り出すように言いなさい。『そして,あなたはそこにある火を向こうにまき捨てる。それらは,自らの魂に罪をおかしたこれらの人々の火取り皿とはいえ,聖なるものだからである。そして,それを薄い板金にし,祭壇の上張りとするように。彼らはそれをエホバの前に差し出したゆえに,それは聖なるものとなったのである。それはイスラエルの子らに対するしるしとされるべきである』」。そこで祭司エレアザルはそれら銅の火取り皿を取り集めた。それらは,焼き尽くされた人々の差し出したものであった。次いで人々はそれを打ち伸ばして祭壇の上張りとし,イスラエルの子らのための記念とした。それは,アロンの子孫でないよそ人はだれも近づいてエホバの前に香の煙をくゆらせることのないため,まただれもコラとその集会の人々のようになることのないためであり,エホバがモーセを通して彼に話したとおりに行なわれた。
すると,すぐその次の日,イスラエルの子らの全集会がモーセとアロンに向かってつぶやき始めてこう言った。「あなた方は,エホバの民を死なせたのだ」。そして,集会がモーセとアロンに逆らって集合した時であったが,その者たちは会見の天幕のほうを向いた。すると,見よ,雲がそれを覆い,エホバの栄光が現われはじめた。
それでモーセとアロンは会見の天幕の前に来た。すると,エホバはモーセに話してこう言われた。「あなた方は,この集会の中から立ちなさい。わたしが彼らを即座に滅ぼし絶やすためである」。これを聞いてふたりはひれ伏した。その後モーセはアロンに言った,「火取り皿を取り,祭壇の上からそれに火を入れ,香を載せ,急いで集会の人々のところに行って,彼らのために贖罪をしなさい。エホバの顔から憤りが表わされたからです。災厄が始まったのです!」 アロンはすぐ,モーセの話したとおりにそれを取り,会衆の中に走って行った。すると,見よ,災厄は民の間に始まっていた。それで彼は香を載せ,民のために贖罪を始めた。そして彼は死んだ者と生きている者との間にずっと立ちつづけた。ついにその神罰はとどめられた。そして,その神罰によって死んだ者は一万四千七百人となり,ほかにコラのために死んだ者たちがいた。最後にアロンが会見の天幕の入口にいたモーセのところに戻ってみると,その神罰はとどめられていた。
次いでエホバはモーセに話してこう言われた。「イスラエルの子らに話して,彼らから,すなわちそのすべての長たちから,それぞれ父方の家ごとに一本の杖を取りなさい。その父の家にしたがって十二本の杖を。あなたは各人の名をその者の杖に記す。そして,アロンの名はレビの杖に記す。その父の家の頭ごとに一本の杖とするのである。そうしてあなた方はそれらを会見の天幕の中の証の前,わたしがいつもあなた方に臨む場所に置かねばならない。そして,わたしが選ぶ者,その者の杖は芽を吹くことになる。こうしてわたしは必ず,イスラエルの子らのつぶやき,すなわち彼らがあなた方に対してしているつぶやきを静まらせる」。
それでモーセはイスラエルの子らに話し,その長たちは皆,各長ごとに一本の杖を彼に渡していった。各長ごとに一本の杖,その父の家にしたがって十二本の杖である。アロンの杖もその杖の中にあった。そこでモーセはそれらの杖をエホバの前,証の天幕の中に置いた。
すると,次の日,モーセが証の天幕の中に入ってみると,見よ,レビの家のためのアロンの杖が芽を吹いていた。しかもそれは芽を出して花を咲かせ,熟したアーモンドをならせていた。それでモーセはすべての杖をエホバの前からイスラエルのすべての子らのもとに携え出した。それで彼らは見て回り,それぞれ自分の杖を取った。
続いてエホバはモーセにこう言われた。「アロンの杖を証の前に戻し,反逆の子らに対するしるしのために保存すべきものとせよ。わたしに対する彼らのつぶやきがやみ,彼らが死なずにすむためである」。直ちにモーセはエホバから命じられたとおりに行なった。まさにそのとおりに行なった。



 これは、有名な、アロンの杖が花を咲かせた出来事です。イスラエルがアロンの権威に疑問を抱いて逆らうようになった時、エホバはアロンに味方し、アロンの杖が花を咲かせるようにしました。そしてエホバは、その杖をエホバの前に戻すようモーセに命令します。
 ここで、「エホバの前」という表現は「証の天幕の中」の言い換えであることが確認できます。証の天幕の中には「証」つまり「契約の箱」が置かれていて、これがエホバであるとみなされていました。そこで、「エホバの前」という表現には「契約の箱の前」という意味があります。

 さて、モーセはエホバに命じられて、「エホバの前から杖を取った」と書かれています。そうすると、この杖は誰の杖でしょうか。直前にこのような出来事があったのですから、当然それはアロンの杖です。
 ところが、モーセがイスラエルの民の前に出てきたとき、異変が生じます。



民数記 20:7-11

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
次いでエホバはモーセに話してこう言われた。「あなたとその兄弟アロンは,杖を取って,集会を呼び集めよ。そしてあなた方は彼らの目の前で大岩に向かって話し,それがまさに水を出すようにしなければならない。あなたは彼らのためにその大岩から水を出し,集会の者たちとその駄獣とに飲ませるのである」。
それでモーセは命じられたとおりにエホバの前から杖を取った。その後モーセとアロンは会衆をその大岩の前に呼び集め,次いで彼はこう言った,「さあ聞け,反逆の者たち! この大岩からわたしたちはあなた方のために水を出すのか」。そうしてモーセは手を掲げ,自分の杖でその大岩を二度打った。すると,沢山の水が出て来て,集会の者たちとその駄獣はそれを飲みだした。



 モーセは「自分の杖で」岩を打った、とあります。ここのところ、聖書原典を見ると「彼の杖」とあります。この表現はこの文脈では重要で、民数記 17:9でも用いられていて、明確にその人の杖の意味を持ちます。つまり、モーセはエホバの前からアロンの杖を持って出て行ったのに、それを自分の杖とすり替えてしまったことになります。これがモーセの犯した第一の罪です。

 聖書のこの記述は、暗にエホバの目的ということを示しています。エホバは、アロンの権威を確立させるにはアロンの杖に花を咲かせるだけでは不十分と考え、イスラエルに水不足を生じさせました。民がモーセに不満を訴え、モーセが花を咲かせたアロンの杖を掲げながら奇跡を行うなら、アロンの権威付けは完璧なものとなるでしょう。
 ところが、そのことにモーセは逆らいました。モーセとしては、アロンの権威が強くなりすぎることが不満だったのでしょう。このことを自分に対する脅威と受け取ったのかもしれません。
 モーセは「岩を二度打った」とあります。ここで多くの人が想像するのはこのような光景です。コン、コン、どっぱあぁ。実際はそうではなかったはずです。モーセはまず一度岩を叩きましたが何も起こりませんでした。杖が違うからです。モーセは自分が何をやらかしているかわかっていますから、この時、自分がエホバに拒絶されていることに気づいて態度を改めるべきでした。ところがモーセは引き下がりません。自分の杖を握りしめ、もう一度岩を叩きます。すると、岩から水が出てきました。モーセは固い決意をもってエホバに反抗し、譲歩を強いたのです。

 こうなってくると状況は戦争のようになってしまいます。もはや手の施しようがありません。
 そして、どうなってしまったでしょうか。びっくりするようなことが起きます。なんと、エホバによって、モーセではなくアロンが処刑されてしまうのです。



民数記 20:22-29

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
その後イスラエルの子ら,その全集会は,カデシュを旅立ってホル山に来た。その時エホバは,エドムの地の境界に近いそのホル山で,モーセとアロンにこのように言われた。「アロンはその民のもとに集められる。わたしが必ずイスラエルの子らに与えるその地に彼は入らないからである。それは,メリバの水に関してあなた方がわたしの指示に背いたためである。アロンとその子エレアザルを連れ,ふたりをホル山に上らせよ。そしてアロンの衣を脱がせ,その子エレアザルにそれを着せるように。アロンは集められて,そこで死ぬことになる」。
それでモーセはエホバが命じたとおりに行なった。集会のすべての者が見るところで彼らはホル山に登って行った。そうしてモーセはアロンの衣を脱がせ,その子エレアザルにそれを着せた。その後アロンはそこで,その山の頂で死んだ。それからモーセとエレアザルはその山から下りて来た。そして,集会の全員はアロンが息絶えたことを知った。イスラエルの全家はアロンのために三十日のあいだ泣き続けた。



 モーセが罪を犯したのに、なぜアロンが死ななければならなかったのでしょうか。答えは出エジプト記 28:38にあります。



出エジプト記 28:38

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
こうしてそれはアロンの額の上に来る。そしてアロンは,聖なる事物,イスラエルの子らが神聖にする物,すなわちそのすべての聖なる供え物に対して犯されたとがに対する責めを負うのである。彼らのためにエホバの前で是認を得るため,それは常にその額の上にとどまらねばならない。



 律法の中に、場合によってはモーセの罪をアロンが被らなければならないと解釈できる規定があったのです。このような規定は幾つかあります。レビ記 5:15-16やレビ記 16:6, 16や民数記 16:46(新共同訳では 17:11)に記されているような贖罪はなんら行わなれなかったようです。本来モーセが死ぬべきでしたが、代わりにアロンが死ぬことになりました。

 もっとも、アロンの死をもってモーセが処刑を免れたというわけではありません。処刑が延期されただけです。やがて、モーセにも処刑の日がやってきます。



申命記 32:48-52, 34:1-8

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
次いでエホバはその同じ日にモーセに話してこう言われた。「アバリムのこの山,ネボ山に上りなさい。それはモアブの地にあって,エリコに面している。そして,わたしがイスラエルの子らの所有として与えるカナンの地を見なさい。そしてあなたは,上って行くその山で死に,自分の民のもとに集められるように。あなたの兄弟アロンがホル山で死んでその民のもとに集められたのと同じように。これは,チンの荒野にあるカデシュのメリバの水のところで,あなた方がイスラエルの子らの中にあってわたしへの忠順に背く行動をしたからである。あなた方がイスラエルの子らの中でわたしを神聖なものとしなかったからである。あなたは遠くからその地を見るが,わたしがイスラエルの子らに与える地に行ってそこに入ることはないのである」。
次いでモーセは,モアブの砂漠平原からネボ山へ,ピスガの頂へ上って行った。それはエリコに面する位置にある。そしてエホバは彼にその全地を見せてゆかれた。すなわち,ギレアデをダンに至るまで,また全ナフタリ,エフライムとマナセの地,そしてユダの全土を西の海に至るまで,さらに,ネゲブと“[ヨルダン]地域”,やしの木の都市であるエリコの谷あい平原をゾアルに至るまでである。
そしてエホバは彼にこう言われた。「これが,わたしがアブラハム,イサク,ヤコブに誓って,『あなたの胤に与える』と言ったその土地である。わたしはあなたが自分の目でそれを見るようにした。あなたはそこに渡っては行かないからである」。
その後,エホバの僕モーセは,エホバの指示のとおり,そのモアブの地で死んだ。そして[神]は,ベト・ペオルに面するモアブの地の谷にこれを葬った。今日に至るまで彼の墓を知っている者はいない。そして,モーセは,死んだとき百二十歳であった。その目はかすまず,その生気は失われていなかった。そしてイスラエルの子らは,モアブの砂漠平原で,モーセのために三十日泣き悲しんだ。ようやくモーセのための喪の泣き悲しみの日々は終わった。



 モーセの「その目はかすまず,その生気は失われていなかった」とあります。これは、モーセには最後まで神の霊の力が宿っていたということを示していますが、別の意味もあります。モーセは老衰で死んだわけではなかった、つまり処刑されたということです。

 ところで、モーセの死については、こちらの聖句も謎だとされています。



ユダ 9

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
しかし,み使いの頭ミカエルは,悪魔と意見を異にし,モーセの体について論じ合った時,彼に対しあえてあしざまな言い方で裁きをもたらそうとはせず,ただ,「エホバがあなたを叱責されるように」と言いました。



 悪魔とミカエルがどんなことを争ったのかは謎とされていますが、聖書の成熟した読者であれば、モーセの死はアロンの死と対になっているということを思い起こすでしょう。



申命記 10:6

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
「そしてイスラエルの子らはベエロト・ベネ・ヤアカンを旅立ってモセラに向かった。そこでアロンは死に,そこに葬られることになった。そして,その子エレアザルが彼に代わって祭司の務めを行なうようになった。

申命記 34:5-6

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
その後,エホバの僕モーセは,エホバの指示のとおり,そのモアブの地で死んだ。そして[神]は,ベト・ペオルに面するモアブの地の谷にこれを葬った。今日に至るまで彼の墓を知っている者はいない。



 何が違うでしょうか。アロンには人による埋葬が行われただけですが、モーセに対しては神による埋葬が行われました。おそらく天使たちによって葬儀が営まれたのでしょう。しかも、ちゃんと墓まで作ったらしいです。
 アロンに比べてモーセは特別扱いです。悪魔サタンはエホバの公正に関わる疑念をばらまくという立場にありますから、仲間の天使たちを引き連れて葬儀の場にやって来て抗議運動を開始し、葬儀の邪魔をしたのでしょう。