エホバの証人の聖書

コリント第一 10:4

新世界訳聖書(エホバの証人)「みな同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らはいつも,自分たちに付いて来た霊的な岩塊から飲んだのです。その岩塊はキリストを表わしていました。」

新共同訳聖書(カトリックとプロテスタント)「みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。」


 「エホバの証人統一協会対策香川ネット」という団体の「宗教研究家 正木 弥」は、「ものみの塔の新世界訳聖書は改ざん聖書」という文書の中で、この聖句についてこう述べています。

『逐語訳で「the rock-mass…was the Christ」とあるのを変えて、「that rock-mass meant the Christ」としてあります。ところで、申命記32:4、15、18によれば”岩(塊)”とは主なる神のことです。ですから、ここで「岩(塊)とはキリストでした」と訳すと、神=キリストとなってしまいます。それでは、"キリストは神ではない"としているエホバの証人にとって都合が悪いので、直接的表現ではない言葉に変えたのでしょう。自分たちの教理のほころびを繕うために聖書を変えるのは本末転倒ですね。 』

 また、「フリーマインドジャーナル」1994年6月号に掲載された、「新世界訳聖書における改竄」リストは、この聖句についてこう述べています。

『「その岩はキリストである」が「その岩塊はキリストを意味していた」に差し替えられている。この節は、受肉前のキリストが、幾世紀も昔に、その神性を現されたことを描写している。この改竄は、「岩」の持つ比喩的な意味合いを強化することにより、キリストの代々にわたる神性を隠蔽しようとするものである。』


 この聖句は、かつてモーセがイスラエルを導いたとき、水不足を解決するために岩から水を出す奇跡が行われたことをモチーフにしたものです。まずはこの記述を見てみましょう。

出エジプト記 17:1-7
新世界訳聖書(エホバの証人)「その後イスラエルの子らの全集会はシンの荒野を出発して,一行程ずつ[進んで行った]。それはエホバの命令にしたがって進んだものである。こうして彼らはレフィディムに宿営することになった。ところが,そこには民の飲む水がなかった。
それで民はモーセと言い争うようになって,「わたしたちに水を与えて飲ませてほしい」と言った。しかしモーセは彼らに言った,「なぜあなた方はわたしと言い争うのですか。どうしてエホバを試みつづけるのですか」。しかし民はそこでしきりに水を渇望し,民は幾度もモーセにつぶやいてこう言った。「わたしたちをエジプトから連れ出して来て,わたしたちも子らや畜類も共に渇きのために死なせるとはどういうわけなのか」。ついにモーセはエホバに叫んで言った,「わたしはこの民をどうすればよいのでしょうか。もう少しすれば,彼らはわたしを石打ちにすることでしょう」。
するとエホバはモーセにこう言われた。「民の前を通ってイスラエルの年長者のうちから幾人かを連れて行き,またあなたがナイル川を打った杖を[取り]なさい。それを手に取って進んで行くように。見よ,わたしはそこの,ホレブの岩の上であなたの前に立つ。そしてあなたはそのを必ず打つように。すると水がそこから出て,民はそれを飲むことになる」。その後モーセはイスラエルの年長者たちの見るところでそのとおりに行なった。それで彼はその場所の名をマッサ,またメリバと呼んだ。イスラエルの子らが言い争ったため,また彼らが,「エホバはわたしたちの中におられるのかおられないのか」と言ってエホバを試みたためである。」

 これが後に、「岩」がキリストに置き換えられ、こう述べられます。

コリント第一 10:1-4
新世界訳聖書(エホバの証人)「さて,兄弟たち,あなた方に知らずにいて欲しくないことですが,わたしたちの父祖はみな雲の下にあり,みな海の中を通り,みな雲と海とによってモーセへのバプテスマを受けました。そして,みな同じ霊的な食物を食べ,みな同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らはいつも,自分たちに付いて来た霊的な岩塊から飲んだのです。その岩塊はキリストを表わしていました。それにもかかわらず,彼らの大多数に対して,神はご自分の是認を表明されませんでした。彼らは荒野で倒されたのです。」

 この二つの聖句の間にはいくつかの関連聖句があり、そこに「岩」から「霊的な岩」への発展性を見いだすことができます。特に詩編 78編はコリントの記述によく対応していますので、すこし抜粋してみてみましょう。

詩編 78:15-18,21,30-35
新世界訳聖書(エホバの証人)「次いで,荒野の岩を裂かれた。水の深みのように,[彼らに]存分に飲ませるためであった。大岩から流れを出させ,水を川のように下らせるのであった。それでも,彼らは水のない地域で至高者に反逆することにより,なおも[神]に対して罪をおかし続けた。次いで,彼らは自分の魂のために食べるものを求めることにより,心のうちで神を試すのであった。
それゆえに,エホバは聞いて,憤怒を覚えられた。火がヤコブに向かって燃え上がり,怒りもまた,イスラエルに向かって上がった。
彼らがその欲望から離れてゆかず,食べ物がまだその口にあったとき,そのとき神の憤りが彼らに向かって立ち上った。そして,[神]はその頑強な者たちの中で殺してゆかれ,イスラエルの若者たちをくずおれさせた。このすべてにもかかわらず,彼らはなおも罪を犯し, そのくすしいみ業に信仰を置かなかった。それで,[神]は彼らの日々をあたかも呼気でもあるかのように終わらせ,彼らの年を騒乱によって[終わらせた]。[神]が彼らを殺すたびに,彼らも[神]を尋ね求め,帰って来て,神を捜し求めた。そして,神が自分たちの岩であること,至高者なる神が自分たちのために復しゅうをしてくださる方であることを思い出すのであった。」

 ここに、エホバが「岩」と呼ばれていることの由来を見つけることができます。ちょうどイスラエルが、肉においては水を生み出す岩を必要としたように、霊においては霊の水を生み出すエホバが必要であるということです。つまりエホバは「霊的な岩」であるということです。聖書はそこから様々な言い回しと概念を生み出していきます。

エレミヤ 2:13
新世界訳聖書(エホバの証人)「『わたしの民の行なった二つの悪事があるからである。彼らは自分たちのために水溜めを,それも,水を入れておくことのできない壊れた水溜めを切り掘ろうとして,生ける水の源であるこのわたしを捨てたのだ』。」

 ここでの「生ける水の源」とは、「岩」と同じ意味であることが分かります。
 正木氏の指摘する申命記のほうも見てみましょう。

申命記 32:4,15,18
新世界訳聖書(エホバの証人)岩なる方,そのみ業は完全,そのすべての道は公正である。忠実の神,不正なところは少しもない。義であり,廉直であられる。
だが,肥え太ってくると,エシュルンはけり足を挙げた。あなたは肥え太り,肥満し,飽食した。そして彼は神を,自分を造ってくださった方を捨て,自分の救いの岩を軽んじた。
あなたの父となった岩なる方をあなたは忘れた。あなたは神を記憶から去らせるようになった。子を産む苦しみをもってあなたを産み出されたその方を。」

 この言い回しの意味するところもよく分かります。しかし、まだキリストについては言及されていません。

 さて、ここですこし確認しなければならないのは、詩編 78編や他の記述において、モーセが水を出した「岩」と、エホバが岩であると言う時の「岩」とは全く同じものであるかということです。これが別のものであることは明白です。モーセが岩から水を出したとき、その岩がエホバご自身だったとか、エホバが岩になっておられたとなどということはありません。ただ、この出来事を故事として「エホバは岩である」ということが言われるようになったとき、岩はエホバになぞらえられ、またエホバを表すようになったということです。水が出た岩自体はただの岩にすぎません。

 では、この概念のキリストにおける発展を見ましょう。

ヨハネ 4:10,14
新世界訳聖書(エホバの証人)「イエスは答えて彼女に言われた,「もしあなたが,神の無償の賜物について,そして,『わたしに飲ませてほしい』と言っているのがだれであるかを知っていたなら,あなたはその者に求めたでしょうし,その者はあなたに生きた水を与えたことでしょう」。
だれでもわたしが与える水を飲む人は,決して渇くことがなく,わたしが与える水は,その人の中で,永遠の命を与えるためにわき上がる水の泉となるのです」。」

ヨハネ 7:37-39
新世界訳聖書(エホバの証人)「さて,最後の日,祭りの大いなる日に,イエスは立っておられたが,叫んでこう言われた。「だれでも渇いている人がいるなら,わたしのところに来て飲みなさい。わたしに信仰を持つ者は,まさに聖書が言ったとおり,『その内奥のところから生きた水の流れが流れ出る』のです」。しかしこれは,彼に信仰を持つ者が受けようとしていた霊について言われたのである。まだ霊がなかったからであり,それは,イエスがまだ栄光を受けていなかったためである。」

 イエスがこのように語ったことにより、これまで一貫してエホバになぞられられていた「岩」に新たな適用が見いだされるようになりました。つまり、「岩」によって表されていたものがエホバからキリストに変化していったわけです。こうして聖書は、今テーマとなっているコリント第一 10:4の概念と表現に到達することになります。
 ここで、「霊的な岩とはキリストである」という表現の意味するところを考えなければなりません。ここで聖書が、実体において「岩=エホバ=キリスト」であるということを言っているのでないことは明らかです。岩はその果たした役割のゆえに、あるときにはエホバに、またあるときにはイエスにもなぞらえられるということです。こうして、エホバとイエスは共に「霊的な岩」となりました。ここにおいて見いだされるのは、エホバとイエスの果たす役割の同一性であって、実体の同一性ではありません。そして、ここに神の子であるイエス・キリストの神性を見いだすことができると思います。
 新世界訳聖書の訳文はこのことをよく考えてのものだと思います。

 参照資料付き新世界訳聖書の脚注はこう述べています。

『または,「キリストでした」。マタ 26:26の脚注参照。』

 マタイ 26:26を見るとこの脚注でさらにマタイ 12:7が示されており、これら3つの聖句でギリシャ語エイミが「意味する」の意味に訳せることが指摘されています。それで、新世界訳聖書の訳し方は文法的にも問題はないようです。

マタイ 26:26
新世界訳聖書(エホバの証人)「彼らが食事を続けていると,イエスはパンを取り,祝とうを述べてからそれを割き,弟子たちに与えて,こう言われた。「取って,食べなさい。これはわたしの体を表わしています」。」

マタイ 12:7
新世界訳聖書(エホバの証人)「しかし,『わたしは憐れみを望み,犠牲を[望ま]ない』ということの意味を理解していたなら,あなた方は罪科のない者たちを罪に定めたりはしなかったでしょう。」

 翻訳の話はここまでにして、さらに関連を見ていきましょう。「岩」に関する一連の聖句の元となった出来事は「マッサ」また「メリバ」という名の由来でもあります。これについてはこのように語られています。

詩編 95:7-11
新世界訳聖書(エホバの証人)「この方はわたしたちの神,わたしたちはその放牧地の民,そのみ手の羊だからである。今日,もしあなた方がその声を聴いたなら,メリバにおけるように,荒野のマッサの日におけるように心をかたくなにしてはならない。そのとき,あなた方の父祖たちはわたしを試した。彼らはわたしを調べ,またわたしの働きを見た。わたしは四十年間[その]世代に対して嫌忌の念を抱きつづけ,そして言うようになった,「彼らは心の定まらない民である。彼ら自身はわたしの道を知るに至らなかった」と。彼らに関して,わたしは怒りのうちに誓った,「彼らにはわたしの休み場に入らせない」と。」

 これも、やがてキリストに適用されるようになります。これは「岩」に関する移行と並行しており、だいたい同じ意味を持ちます。

ヘブライ 3:1-19
新世界訳聖書(エホバの証人)「そのようなわけで,聖なる兄弟たち,天の召しにあずかる人たちよ,わたしたちが[信仰を]告白する使徒また大祭司,イエスを思い見なさい。彼は自分をそのようにした方(つまりエホバ)に対して忠実でした。モーセもまたその方の家全体にあって[忠実で]あったのと同じです。[家]を造る者がその家よりも誉れを受けるからには,その方はモーセ以上の栄光に値するとみなされるからです。言うまでもなく,家はすべてだれかによって造られるのであり,すべてのものを造られたのは神です。そして,モーセは(エホバの家の)従者として,その方の家全体にあって忠実であり,後に語られる事柄の証しとなりましたが,キリストはその方(エホバ)の家の上に立つ子として[忠実でした]。はばかりのないことばと希望にかかわる誇りとを終わりまでしっかりと堅く保つなら,わたしたちはその方(エホバ)の家となるのです。
それゆえ,聖霊が述べるとおりです。「今日,もしこの方の声を聴いたら,あなた方は,苦々しい怒り(つまりメリバ)を引き起こした時のように,荒野で試した(つまりマッサの)日のように心をかたくなにしてはならない。そこであなた方の父祖たちは試みをもってわたしを試した。しかもそれはわたしの業を四十年のあいだ見たのちのことであった。そのためわたしはこの世代に嫌悪を覚えて,こう言った。『彼らの心は常に迷い,彼ら自身はわたしの道を知るに至らなかった』。それでわたしは怒りのうちに誓った,『彼らにはわたしの休みに入らせない』と」。
兄弟たち,あなた方のうちのだれも,生ける神から離れて,信仰の欠けた邪悪な心を育てることがないように気をつけなさい。むしろ,「今日」ととなえられる限り日ごとに勧め合い,あなた方のだれも,[人を]欺く罪の力のためにかたくなになることのないようにしなさい。初めに抱いた確信を終わりまでしっかりと堅く保ってはじめて,わたしたちは本当にキリストにあずかる者となるのです。もっともそれは,「今日,もしこの方の声を聴いたら,あなた方は,苦々しい怒りを引き起こした時のように心をかたくなにしてはならない」と言われている間のことです。
聞いたのに苦々しい怒りを起こさせたのはだれでしたか。実に,モーセのもとにエジプトを出たすべての人たちではありませんでしたか。また,[神]はだれに対して四十年のあいだ嫌悪を覚えられたのですか。罪をおかして,その死がいが荒野に倒れた人たちに対してではありませんでしたか。また,[神]は,ご自分の休みに入らせないということを,不従順に行動した人たち以外のだれに対して誓われたでしょうか。こうしてわたしたちは,彼らが信仰の欠如のゆえに入れなかったことを知るのです。」

 ここには、家であるクリスチャンと、家の建築家である神と、家の責任者であるイエスと、家の従者であるモーセが出てきます。これは、従来「岩」で示されていた一つの役割が分割されて、その結果「岩」という表現が使われなくなった事例だと言えます。このことから、「岩はエホバである」とか「岩はキリストである」という聖書の言い回しがおおざっぱなものであり、それゆえに両者の同一性が認められるということがわかります。


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