新世界訳
エホバの証人の聖書

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啓示(黙示録) 19:10

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
そこでわたしは,彼の足もとにひれ伏して彼を崇拝しようとした。しかし彼はわたしに言う,「気をつけなさい! そうしてはなりません! わたしは,あなた,また,イエスについての証しの業を持つあなたの兄弟たちの仲間の奴隷にすぎません。神を崇拝しなさい。イエスについて証しすることが預言に霊感を与えるものなのです」。

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
そこで私は,天使を崇拝しようと,その足元にひれ伏した。しかし天使は言った。「気を付けなさい! そうしてはなりません! 私は,あなたや,イエスについて証言する務めを与えられているあなたの兄弟たちの,仲間の奴隷にすぎません。神を崇拝しなさい! イエスについて明らかにすることこそ,預言の目的です」。

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
私は天使の足元にひれ伏して、拝もうとした。すると、天使は私に言った。「やめよ。私は、あなたや、イエスの証しを守っているあなたのきょうだいたちと同じく、仕える者である。神を礼拝せよ。イエスの証しは預言の霊なのだ。」

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
わたしは天使を拝もうとしてその足もとにひれ伏した。すると、天使はわたしにこう言った。「やめよ。わたしは、あなたやイエスの証しを守っているあなたの兄弟たちと共に、仕える者である。神を礼拝せよ。イエスの証しは預言の霊なのだ。」

◇ 口語訳聖書 ◇ (プロテスタント)
そこで、わたしは彼の足もとにひれ伏して、彼を拝そうとした。すると、彼は言った、「そのようなことをしてはいけない。わたしは、あなたと同じ僕仲間であり、またイエスのあかしびとであるあなたの兄弟たちと同じ僕仲間である。ただ神だけを拝しなさい。イエスのあかしは、すなわち預言の霊である」。

◇ 新改訳聖書 [2017年版] ◇ (ファンダメンタル)
私は御使いの足もとにひれ伏して、礼拝しようとした。すると、御使いは私に言った。「いけません。私はあなたや、イエスの証しを堅く保っている、あなたの兄弟たちと同じしもべです。神を礼拝しなさい。イエスの証しは預言の霊なのです。」

◇ 新改訳聖書 [第三版] ◇ (ファンダメンタル)
そこで、私は彼を拝もうとして、その足もとにひれ伏した。すると、彼は私に言った。「いけません。私は、あなたや、イエスのあかしを堅く保っているあなたの兄弟たちと同じしもべです。神を拝みなさい。イエスのあかしは預言の霊です。」



 ここで用いられている「イエスの証し」という表現は、「イエスによる証し」、「イエスについての証し」のどちらにも読めるのだそうです。

 そうするとこの言葉はどちらの意味だろうかということになりますが、あまりはっきりとしたことは言えないようです。ここで言う“霊”は、「原動力」あるいは「目的」というような意味だと考えられています。もしそうだとすると、それは「イエスによる証言が弟子たちの預言の原動力になっている」という意味かもしれませんし、あるいは「イエスについて証言することこそが預言の究極の目的である」という意味かもしれません。

 より詳しい説明は 啓示(黙示録) 1:9の項 のほうにありますので参照してください。






 エホバの証人統一協会対策香川ネット正木弥氏は、この聖句についてこのように批判しています。



◇ 「ものみの塔の新世界訳聖書は改ざん聖書」, 正木弥 (表記修正)

 逐語訳で"the… witness of Jesus"ということばが、新世界訳(英文)では"the bearing witness to Jesus"になっています。この場合"bearing"という単語によって、何らかの行いをすること、という概念が含まれました。これを踏まえて新世界訳(日本語)では"イエスについて証しをすることが"と訳されています。それにより、エホバの証人の行為主義、野外奉仕(戸別訪問)を励ます聖句とせられました。しかし、この訳はギリシャ語本文をそのままに訳した逐語訳から離れていないでしょうか。つけ足したことにならないでしょうか。



 ここでの論点は“of”か“to”かということだと私は思うのですが、彼は違うことを説明しています。
 この場合、「証言」と「証言の行為」とは実質的に同じです。「イエスによる証言」は「イエスによって行われた証言」と大差ないですし、「イエスのことを証言する」は「イエスのことを証言する行為」と大差ありません。同じような事例は 啓示(黙示録) 3:14 など様々なところにあります。
 この聖句が何かの預言的行為を述べていることは明らかであるように思います。それは、かつてイエスによって表明されたか、あるいは今、集会での説教や聖書伝道によって実践されるのでしょう。