新世界訳
エホバの証人の聖書

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 2018年12月、日本聖書協会から待望の新翻訳「聖書協会共同訳聖書」が刊行されました。この聖書は、もともと「日本語標準訳聖書」という訳本名で刊行される見込みだったものです。その訳業においては、予定された名称にふさわしく“優れた日本語”を特徴とすることが主要な目標の一つとして掲げられていました。
 そのため、翻訳の作業にあたっては、「翻訳者」と「日本語の専門家」がペアになり、翻訳者が訳文を組み立てると同時に日本語の専門家が訳文の完成度のチェックを行うという手法が採られました。また、出来上がった訳文の朗読テストも行われ、訳文が自然で読みやすいかが検証されました。さらに、本来なら出版を行う段階で「パイロット版」の先行販売を行い、一般からの意見を集めて訳文の調整を行いました。
 日本聖書協会が「聖書協会共同訳聖書」の完成に向けて投入した人材と労力はたいへんなもので、今後は同じだけのことはできないかもしれない、これが最後になるかもしれない、と言うほどでした。

 ところが、この聖書、読み進めてみるといろいろと日本語が変なのです。おかしいところがたくさんあります。
 前年に刊行された新改訳聖書2017年版の日本語はなかなか優秀だと思います。比較すると、聖書協会共同訳聖書の日本語は全般的に質が低いという印象を持ちます。これは、翻訳者や日本語の専門家といった方々の資質の不足によるところが大きいのだろうと感じました。多くの人材と労力を費やしてこれはないだろうと私は思います。

 というわけで、この文書では、聖書協会共同訳聖書における日本語の問題点のうち分かりやすいものをいくつか選んで指摘したいと思います。
 なお、聖書協会共同訳の悪口を言うつもりはありませんし、評判や評価をむやみに下げるつもりもありませんので、数は絞り、感想はひかえめに、解説もなるべく建設的にしたいと思います。(*この記事は2018年12月25日から2019年2月2日に連載されました。)



マタイ 6:1

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から報いが受けられない。



 聖書協会共同訳聖書の大きな問題点は、イエスの台詞の文体が二段構えになっていることです。聖書協会共同訳聖書において、イエスの台詞の文体は“である調”です。しかし、指示や命令を述べる時には“ですます調”になります。しかし指示や命令が禁止である場合には“である調”に戻ります。この変則的ルールのせいで、イエスの台詞はいたるところで破綻気味になっています。
 普通、「報いが受けられない」は「報いは受けられないでしょう」にしたいところです。ところが、聖書協会共同訳聖書にはルールがありますから、「報いは受けられない」か「報いは受けられないだろう」しか選択肢はないということになります。だったら「報いは受けられないだろう」を選べはいいと思うのですが、そうはなっていません。
 また、「そうでないと」は「そうしないと」にしたほうがいいと思いますが、「そうしないと」は“ですます調”です。
 もう一つの問題点は、助詞「が」の多用です。「報いは受けられない」とすればいいところ、「報いが受けられない」となっています。聖書協会共同訳聖書には、助詞「が」の間違ってはいないけれど不自然な用法、というものが大量にあります。

 あと、言語学的な話になるのですが、この訳文には二重否定の問題が入っています。「そうでないと……受けられない」という部分です。二重否定は意味をつかむことが難しい場合があり、特に発達障害を持って生まれてきた方や読解力の低い方にはつらいところがあります。というわけで、ここではあえて「そうすれば、天におられるあなたがたの父から報いを受けることになるだろう」とする選択肢があります。

 そもそもの話として、なぜイエスの台詞が“である調”なのか、という問題があると思います。
 いま、世の中を見渡して、社会の中のいろいろな立場にある人たちの話し口調を聞いてみても、聖書協会共同訳聖書におけるイエスのような口調で話している方はどこにも見つかりません。映画や小説といったものを見ても、今から何十年も前のものにはそういう口調がありましたが、今は聞かれません。つまり、文体が古いのです。聖書協会共同訳聖書は今後30年ほど使用される予定となっていますので、かなり問題だと思います。



マタイ 7:12

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」



 これは、初めて聖書を読む方、特に子供にはかなり難しいでしょう。「これこそ律法と預言者である」は適切に文意を補って「これこそ律法と預言者が教えようとしてきたことだ」などとすることができます。



マタイ 7:18

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。



 ここは「ことはできず……こともできない」にしないと語呂が悪いです。



マタイ 8:2

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
すると、規定の病を患っている人が近寄り、ひれ伏して、「主よ、お望みならば、私を清くすることがおできになります」と言った。



 「規定の病」は、従来の聖書で「らい病」とされていたものです。これが差別語であるということで、聖書協会共同訳聖書の前身である「新共同訳聖書」ではこれを「重い皮膚病」としていましたが、今度は「規定の病」となりました。日本聖書協会の説明によると、ここで言うところの「規定」とは、レビ記の規定のことだそうです。これはレビ記で規定されている病気だから「規定の病」としました、という説明です。「重い皮膚病」の使用をやめたのは、ハンセン病の方にとってそういう表現は不快だから、だそうです。
 ここで少し気になるのは、差別語は使うべきでないという話と不快語は使わないほうがよいという話とは本質的なところが違う、ということです。このあたりの是非はここで論じることではないので置いておきますが、問題は「規定の病」という言い方で意味が伝わるか、ということでしょう。



マタイ 12:33

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
「木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木の良し悪しはその実によって分かる。



 後半を読み飛ばした場合、誤解の多い表現です。「木が良ければその実も良いものだ、木が悪ければその実も悪いものだとわきまえなさい」とすることができます。
 ここでも、先に指摘した二段構えの文体が見られます。



マタイ 14:19

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで祝福し、パンを裂いて弟子たちにお渡しになり、弟子たちはそれを群衆に配った。



 これは昔から多くの方によって指摘されている問題です。このように言うとイエスがパンと魚を祝福したように聞こえてしまいます。イエスが祝福したのは神なのですから、「天を仰いで神を祝福し」とするべきでしょう。



マタイ 20:15

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
自分の物を自分のしたいようにしては、いけないのか。それとも、私の気前のよさを妬〔ねた〕むのか。』



 聖書協会共同訳聖書には、句読点が多めであるという問題があり、これは解りやすい例です。「いけないのか」の前にカンマはいらないでしょう。



マタイ 21:9

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
群衆は、前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に 祝福があるように。いと高き所にホサナ。」



 「ホサナ」はやや翻訳が難しいというところがありますので、音訳するというのは理解できますが、多くの読者にとっては意味が不明でしょう。
 ここで私が非常に気になったのは、聖書協会共同訳聖書には、マタイ 7:22でイエスの「名」を「御名」と訳していながら、神の「名」のほうは「名」で済ませてしまう傾向があるということです。マタイ 23:39でも同様です。これは論外だ、こんなことはあってはならない、と私は思います。



ルカ 1:1-2

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
私たちの間で実現した事柄について、最初から目撃し、御言葉に仕える者となった人々が、私たちに伝えたとおりに物語にまとめようと、多くの人がすでに手を着けてまいりました。



 ルカ福音書の冒頭でこの文というのは、私としてはなかなかインパクトが強かったです。
 この文には主語が二つあるように見えるという問題があります。「御言葉に仕える者となった人々が」と「多くの人が」です。問題の原因となっているのは「御言葉に仕える者となった人々が」の後にカンマが入っていることです。カンマがなければそれなりに文意が成立しますが、それでもややこしいと思います。ここは、「私たちの間で実現した事柄について、最初から目撃し、御言葉に仕える者となった人々から、私たちに伝えられたとおりのことを物語にまとめようと、多くの人がすでに手をつけてまいりました。」とすればよいと思います。
 「手を着けて」の「着けて」は昔の書き方です。今は「手をつけて」が主流になりつつあると思います。このあとのルカ 2:25のように、聖書協会共同訳聖書にはこの種の問題も多いです。どうしても日本語の古さが目についてしまいます。



ルカ 1:8

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
さて、ザカリアは自分の組が当番で、神の前で祭司の務めをしていたとき、



 ここは「さて、ザカリアは、自分の組が当番となり、」としたほうがよいでしょう。



ルカ 1:17

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
彼は、エリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の思いを抱かせ、整えられた民を主のために備える。」



 ここは「エリヤの霊と力によって」としたほうがよいでしょう。



ルカ 2:25

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
その時、エルサレムにシメオンと言う人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。



 普通は「シメオンという人がいた」とするところです。誤変換なのかと思いましたが、意図してやっているようで、ルカ 10:38-39など至る所に「と言う人」という表現があります。



ルカ 2:48

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
両親はイエスを見て驚き、母が言った。「なぜ、こんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんも私も心配して捜していたのです。」



 「両親はイエスを見て驚いてしまった。そして母は」というふうにするべきでしょう。



ルカ 6:49

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
しかし、聞いても行わなかった者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった。」



 いつもの、助詞「が」の多用です。「その壊れ方は」としたほうがいいでしょう。



ルカ 9:4

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
どこかの家に入ったら、そこにとどまって、その家から旅立ちなさい。



 「どこかの家に入ったら、その家から旅立つまで、そこにとどまりなさい」としないと、訳の分からないことになります。人の家に泊まる目的は、そこに留まることであって、旅立つことではありません。



ルカ 11:17

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
しかし、イエスは彼らの心を見抜いて言われた。「内輪で争えば、どんな国も荒れ果て、家は重なり合って倒れてしまう。



 ここでイエスが言っているのは、家と家が重なって倒れてしまうことではなく家の中のいろいろなものが重なって倒れてしまうことですから、ここは「家の中のものは重なり合って」もしくは「家は中のものが重なり合って」とするべきでしょう。



ルカ 11:33

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
「灯〔ともしび〕をともして、それを穴蔵や、升〔ます〕の下に置く者はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。



 ランプを升の下に置く、ということを想像できる人がいるでしょうか。ここは「灯をともして、穴蔵の中に入れてしまったり、カゴをかぶせてしまったりする者はいない」としなければ意味が通りません。



ルカ 11:37

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
イエスが話し終えると、ファリサイ派の人から食事の招待を受けたので、その家に入って食事の席に着かれた。



 「話し終えられたイエスは、ファリサイ派の人から食事の招待を受け、その家に入って食事の席に着かれた」としたほうがいいでしょう。



ルカ 14:24

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
言っておくが、あの招かれた人たちの中で、私の食事を味わう者は一人もいない。』」



 「言っておくが、あの招かれた人たちの誰一人にも、私の用意した食事を味わわせたりはしない」としたほうがいいでしょう。



ルカ 20:42

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
ダビデ自身が詩編の中で言っている。『主は、私の主に言われた。「私の右に座れ



 これも昔から、これだと意味が解らないと言われ続けてきたところです。聖書についての予備知識がない方は、主が主に言うとはどういうことかと理解に苦しむでしょう。最初の「主」は、神「エホバ」が「主」に変化したものです。新世界訳聖書のように神名の復元を行わない聖書の場合、ここをあえて「神は」とする方法があると思います。日本はキリスト教国ではないのですし、キリスト教徒たちの聖書に対する理解も浅いのが現状ですから、こういう配慮は必要だと思います。

 ちなみに、聖書協会共同訳聖書のルカ 17:26-29では、この種の配慮が実践されています。複数個所で「日」を「時」と訳し替えているところです。さらに、神学上の都合により暗黙の了解となっている訳語「その日」の使用を自粛することまでしています。これは、私がマタイ 24:3の項で指摘したことを真剣に考慮したのだと思います。聖書協会共同訳聖書の良いところは、外部からの批判に積極的に耳を傾ける姿勢が見られていることです。



ヨハネ 1:33

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
私はこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼〔〔バプテスマ〕〕を授けるようにと、私をお遣わしになった方が私に言われた。『霊が降〔くだ〕って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である。』



 「授けるようにと」のあとにカンマがあるせいで、「言われた」が「水で洗礼を授けるように」のほうにかかっているように見えます。ここのカンマはいらないでしょう。



ヨハネ 2:1-3

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスとその弟子たちも婚礼に招かれた。ぶどう酒がなくなってしまったとき、母がイエスに、「ぶどう酒がありません」と言った。



 いつもの、助詞「が」の多用です。



ヨハネ 2:7

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。



 この言い方だと「いっぱい」は「たくさん」の意味になってしまいます。
 カンマが多いのも気になります。聖書協会共同訳聖書は句読点のせいで文のリズムが崩れてしまいがちです。特に声を出して読むような場合に、流れるように読むということができなくてストレスが溜まります。
 続くヨハネ 2:8で文の組み立て方が変わっていることも気になります。イエスの言葉をリズミカルにするために意図してそうしているのならよいと思いますが、単に集中力が欠けているだけのような気がします。



ヨハネ 4:45

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
ガリラヤにお着きになると、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した。彼らも祭りに行ったので、その時エルサレムでイエスがなさったことをすべて、見ていたからである。



 これは私個人の感覚なのかもしれませんが、“敬語交じりのである調”には拒絶反応に近いほどの違和感を覚えることがあります。敬語の問題についてはこのあと続けていくつか挙げます。
 また、「人」の複数はいつも「人々」になるのに、ここで急に「人たち」となることにも違和感があります。



ヨハネ 4:47

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞き、イエスのもとに行き、カファルナウムまで下って来て息子を癒やしてくださるように頼んだ。息子が死にかかっていたからである。



 「聞き……行き」という言い方は雑だと思います。「イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞いて、イエスのもとに行き」としたほうがいいでしょう。



ヨハネ 4:49

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
王の役人は、「主よ、子どもが死なないうちに、お出〔い〕でください」と言った。



 今時、「おいでください」に漢字を充てる人はいないと思います。



ヨハネ 4:53

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
それが、イエスが「あなたの息子は生きている」と言われたのと同じ時刻であったことを、父親は知った。そして、彼もその家族もこぞって信じた。



 「こぞって」は過剰な表現だと思います。ここは「彼とその家族はみな信じた」くらいがいいでしょう。



ヨハネ 5:13

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
しかし、病気を治していただいた人は、それが誰であるか知らなかった。群衆がその場にいたので、イエスはそっと立ち去られたからである。



 敬語の使用が過剰で不自然になっています。ここは、「病気を治してもらった人は」にするべきでしょう。



ヨハネ 6:22

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
その翌日、湖の向こう岸に立っていた群衆は、小舟が一そうしかそこになかったこと、また、イエスが弟子たちと一緒に舟に乗りこまれず、弟子たちだけが出かけたことに気付いた。



 ここも敬語の使用が過剰であるように感じました。「乗りこまれず」は「乗りこまず」にしたほうがいいと思います。
 「気付いた」は「気づいた」と綴るのが現代的だと思います。
 文意ということも気になります。この文が示していることを初見でしっかり把握できる人は少ないと思います。「小舟が一そうしかそこになかったのに、イエスが」とすれば問題は解決されます。

 さてここで、聖書協会共同訳聖書の敬語の扱いについて誤解のないようにしておきたいと思います。題材としてヨハネ 6:3,5,11をご覧ください。聖書協会共同訳聖書は、日本語の「して」が時制などの要素の継続を生じさせるという性質を利用しています。「私は朝起きて、顔を洗い、歯を磨き、朝食を食べました」という文の場合、最後の「食べました」だけが過去形であることによって文の全体が過去になります。これが敬語にも使えるということです。マタイ 8:23とマタイ 9:1で「舟に乗り」の言い回しが違うのは、敬語の使い方にムラがあるからではなく、ルールに従っているからです。



ヨハネ 6:28-29

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」



 聖書協会共同訳聖書に限らずほとんどの邦訳聖書には、“「言う」の杓子定規な訳”という問題があると思います。
 福音書には「人々が言うと」というような言い回しが頻繁にありますが、日本語の聖書としての完成形を目指しているなら、たとえばここは「彼らが尋ねるとイエスは答えた」という具合に訳すべきだと思います。こういう言語感覚を欠きながら、格調高く美しい日本語というものを達成することはできないでしょう。この件はこのあとのヨハネ 8:38-39でも論じます。
 「神の業を行うためには」のあとのカンマは、読むときのリズムを損なうので、いらないでしょう。ヨハネ福音書はカンマが多すぎだと思います。



ヨハネ 6:62

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
それでは、人の子が元いた所に上るのを見たら、どうなるのか。



 「降〔くだ〕る」の対義語は「昇る」だと思います。「昇天する」とも言うわけですし。同じ問題はヨハネ 3:13にもあります。



ヨハネ 8:24

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
だから、あなたがたは自分の罪のうちに死ぬことになると、私は言ったのである。『私はある』ということを信じないならば、あなたがたは自分の罪のうちに死ぬことになる。」



 「『私はある』」という表現は続くヨハネ 8:28などにもあります。これがどうしてなのかということは、ヨハネ 8:24の項ヨハネ 8:58の項に説明がありますが、その辺の事情と是非は置いておくとしても、このような訳文では多くの読者に意味が届かないだろうという問題があると思います。こういう方針を採用するのなら、「私が『私はある』と宣言した者であるということを」くらいにしておかないと、伝わらないでしょう。
 「罪のうちに死ぬ」は「罪によって死ぬ」とすることを検討したほうがよいかもしれません。ただ、これをやるとなると、ヨハネ福音書全体の見直しが必要になってくるのでたいへんでしょう。この辺についてはこのあとのヨハネ 14:20のところに情報があります。



ヨハネ 8:38-39

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
私は父のもとで見たことを話しているが、あなたがたは父から聞いたことを行っている。」 彼らが答えて、「私たちの父はアブラハムです」と言うと、イエスは言われた。「アブラハムの子なら、アブラハムと同じ業をしているはずだ。



 ここは「あなたがたは別の父から聞いたことを行っている」としなければ読者は混乱するでしょう。
 私見になりますが、ここを多くの翻訳がするように「自分の父から」とするのは不適切かもしれません。この「父」には、“誰の父か”という要素と、“どの父か”という要素とがあって、重要なのは“どの父か”のほうだと私は考えます。つまり、ここでの主要な文意は「私の父でもアブラハムでもない別の父から」というもので、それが人々の反論につながっていくのだと私は考えます。そして、私の見解はヨハネ 8:41と調和します。ここのところ、表面的に見れば、イエスが「自分の父」という言い回しを用いていて、“誰の父か”という要素が論点になっているように見えますが、人々の反論はそうではありません。問題になっているのはやはり“どの父か”です。というわけで、続く部分も「彼らが反論して、「いや、私たちの父はアブラハムです」と答えると、イエスは言い返された」としたほうがいいでしょう。この「言い返す」の訳はヨハネ 8:48に見られます。(*この記述は2019年1月に公表されました。)



ヨハネ 8:44

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
あなたがたは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は初めから人殺しであって、真理に立ってはいない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、偽りの父だからである。



 この言い方だと、人の親を悪魔呼ばわりしているようにも読めます。キリスト教徒でない方の多くはそういう受け取り方をすると思います。ここは「悪魔という父から」としなければならないでしょう。
 「自分が偽り者であり」は「彼は偽り者であり」としたほうがいいと思います。関西圏には「自分」を「おまえ」の意味で用いる語法があって、かぶってしまいます。



ヨハネ 12:50

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
父の命令は永遠の命であることを、私は知っている。だから、私が語ることは、父が私に言われたとおりを、そのまま語っているのである。」



 「父の命令が永遠の命を意味することを」としたほうがよいでしょう。この点についてはヨハネ 17:3の項に解説があります。
 相変わらずカンマが多いです。



ヨハネ 14:20

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
かの日には、私が父の内におり、あなたがたが私の内におり、私があなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。



 ヨハネ福音書にはこの種の表現がたくさんあるのですが、このような訳文を見ると、これは根本的に訳し方を見直したほうがよいのではないかと思わされます。この問題についてはヨハネ 17:21の項ヨハネ 6:56の項ヨハネ 7:29の項に説明があります。



ヨハネ 17:14-16

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
私は彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。私が世から出た者でないように、彼らも世から出た者ではないからです。私がお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。私が世から出た者でないように、彼らも世から出た者ではありません。



 ヨハネ福音書には、ギリシャ語“エク(「から出る」)”の特徴的な用法があります。(このウエブサイトでは、ヨハネ 7:29の項でヨハネ 8:42,44, 15:19を調べるよう勧めています。) ヨハネ 8:42,44でこの語は、人が誰に属しているかを示すために用いられています。「神から出た」と言えばその人は神に属し、「悪魔から出た」と言えばその人は悪魔に属すという具合です。ところがこの語、ヨハネ 15:19でも同じように訳してしまうと、その先にあるヨハネ 17:14-16で行き詰まってしまうという問題があります。聖書協会共同訳聖書はこれをそのままやらかしています。
 ヨハネ 17:14,16の「世から出た者でない」は、「世からの出身者ではない」の意味で用いられていて、世との関係が全くないことを意味しています。ところがこの箇所の場合、間に「世から取り去られない」という但し書きの言葉が挟まっているせいで、その文意が「世に留まる者」になってしまうという問題があります。意味が全く逆になってしまうのです。イエスがここで述べているのは、クリスチャンは物理的に世に存在しているとしても思想的には共存していないということです。この問題を回避するには、多くの訳本がやっているように、これを「世のものでない」とか「世に属する者でない」としなければなりません。
 聖書協会共同訳聖書はできあがった訳文の文意を検証できていないようで、こういう問題が多数あって困ります。
 しかもこのあと、この問題がどうなるかというと……



ヨハネ 18:36

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
イエスはお答えになった。「私の国は、この世のものではない。もし、この世のものであれば、私をユダヤ人に引き渡さないように、部下が戦ったことだろう。しかし実際、私の国はこの世のものではない。」



 ……もはや何と言っていいかわかりません。



使徒 1:1-2

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
テオフィロ様、私は先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指示を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。



 ここでは、「……から……まで」という一続きの文節があるのですが、「イエスが行い」のあとにカンマがあるせいで「イエスが行い」がその範囲から外れているように読めるという問題があります。ここはカンマを省くか、新改訳聖書2017年版のように、「イエスが行い始め、また教え始めてから」とするとよいでしょう。これをさらに、「イエスが活動を開始して教えを説くようになった日から、選ばれた使徒たちに聖霊による指示を与えて天へ挙げられた日まで、」とするともっとよくなります。読むときのリズムを損なわないことにはよく気を遣わなければならないと思います。
 「天に上げられた」は「天へ挙げられた」のほうがよいように思います。



使徒 3:11

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
さて、その男がペトロとヨハネに付きまとっていると、民衆は皆非常に驚いて、「ソロモンの回廊」と呼ばれる所にいる彼らの方へ駆け寄って来た。



 ここは、「さて、その男がペトロとヨハネから離れまいとしているとき、非常に驚いた様子をした民衆が、こぞって「ソロモンの回廊」と呼ばれる所にいる彼らのほうへ駆け寄ってきた。」とすることができるでしょう。さらに手を加え、「その男がペトロとヨハネにすり寄ってきたうえ、興奮した群衆までもがこぞって三人のいる「ソロモンの回廊」に押し寄せる事態となった。」などとするなら、その文意は明瞭となります。「付きまとう」は「つきまとう」と綴るのが現代的です。それ以前に、「つきまとう」には迷惑行為であるというイメージがあって不適切です。「彼らの方へ」は「彼らのほうへ」と綴るのが現代的です。「駆け寄って来た」も「駆け寄ってきた」のほうがいいでしょう。



使徒 4:9-10

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
今日私たちが取り調べを受けているのは、病人に対する善い行いと、その人が何によって癒やされたかということについてであるならば、皆さんもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、あなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中から復活させられたナザレの人イエス・キリストの名によるものです。



 邦訳聖書には「あなたがた」という言い回しがやたらくどすぎるという問題があります。私はこれを「皆さん」などに置き換えてはどうかと常々思うのですが、そんな私としては、ここで突発的に「皆さん」が出現し、そのあと消滅してしまうというのにはかなり閉口させられます。
 「今日私たちが取り調べを受けているのは」は「今日私たちが取り調べを受けているのが」、「あるならば」は「あるなら」か「あれば」、「この人が良くなって、あなたがたの前に立っているのは」は「この人がよくなって皆さんの前に立っているのは」、「名によるものです」は「名によるのです」でしょう。



使徒 19:17

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
このことがエフェソに住むユダヤ人やギリシア人すべてに知れ渡ったので、人々は皆、恐れを抱き、主イエスの名を崇めるようになった。



 日本の聖書には、カタカナで表記される名詞の、ほかの場所ではまず見ないような綴りが頻繁に見られるという問題があります。ここでは、一般に「エフェソス」と呼ばれる地名が「エフェソ」、「ギリシャ」が「ギリシア」になっています。昔の綴りがそのまま使われています。聖書協会共同訳では動物と植物の名称のほうは根本から見直されたそうで、日本聖書協会はそのことを盛んに宣伝しています。一方で地名のほうの刷新はできていないみたいです。



ローマ 1:17

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
神の義が、福音の内に、真実により信仰へと啓示されているからです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。



 聖書協会共同訳聖書については、「信仰」という言葉から信仰以外の意味が読み取れるという場合に「信実」という訳語を充てる方針が公表されていました。この点については使徒 24:24の項にすこしだけですが説明があります。その後、日本聖書協会は方針を転換して「真実」の訳語を採用したようです。ただ「真実」と「信実」は意味が異なるという問題があります。ローマ 3:3には、この語を「真実」と訳しても構わないだろうという例があります。しかし、ほかの場所でも同じようにしているとなると、どうなんでしょうか。



ローマ 3:1-4

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
では、ユダヤ人の優れた点は何か。割礼の利益は何か。それは、あらゆる点でたくさんあります。第一に、神の言葉が委ねられたことです。それはどういうことか。彼らの中に真実でない者がいたにせよ、その不真実のせいで、神の真実が無にされるとでもいうのですか。決してそうではない。人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。「あなたは、言葉を述べるとき、正しいとされ 裁きを受けるとき、勝利を得られる」と書いてあるとおりです。



 これは、先に述べたローマ 3:3のところです。ここでは「信仰」を「真実」と訳すことが許容されると思いますが、本来「真実」と訳される語と訳語が被っているという問題があると思います。「信実」を採用していればこのような問題は回避できました。読者が「真実」という語を読んだとき、「信仰」由来の「真実」なのか、そうでない「真実」なのか、区別がつかないというのは深刻な問題だと思います。ここには4回「真実」が出てきますが、普通の真実は1回、信仰の言い換えは3回です。あなたにはわかるでしょうか?
 ローマのクリスチャンへの手紙を読んでいると、パウロの台詞も文体が二段構えであることに気づかされます。福音書の場合と同様、わざと意図してやっているみたいですが、これがなかなか不自然で、福音書の場合と同様、なにかと破綻気味です。ほかにローマ 6:1-2,15-16, 11:1-11などがあります。
 聖書協会共同訳聖書では、詩の部分はカンマを省いて改行を入れるという方針が採られています。そのようなわけで、「正しいとされ」のあとにカンマはありません。引用の際の不便を無視したものだと思います。日本聖書協会は、カンマは省いた方が日本語として美しくなると説明していますが、私には理解できません。カンマに関しては、聖書協会共同訳聖書は迷走状態だと思います。

 聖書からの詩の引用については、1. 原本どおり改行を入れて引用する、2. 改行を示す全角スラッシュ「/」を挿入する、3. 全角スペース「 」を挿入する、4. カンマ「、」をつけてしまう、の4通りのやり方があるようです。日本聖書協会はこの問題についてのガイドラインを作って公表すべきだと私は思います。



ローマ 5:1

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
このように、私たちは信仰によって義とされたのだから、私たちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ています。



 こちらも二段構えの文体です。「義とされたのだから」が浮いた感じです。ほかにもローマ 5:13, 7:2, 9:21などがあります。ここは次に挙げるローマ 5:9-10のように「義とされたのですから」でいいと思います。



ローマ 5:9-10

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
それで今や、私たちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。



 ここは「当然のことです」とするとよいでしょう。
 「和解させていただいた今は」の「は」は「救われるのは」の「は」と被るのでいらないでしょう。



ローマ 11:21

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
神が自然に生えた枝を惜しまなかったとすれば、恐らくあなたを惜しむこともないでしょう。



 ここは実質的には二重否定ということになると思います。そこに仮定がついていますので難読文章です。つまり、「切り捨てることをしないことをしないことをするとすれば」という文です。「神が自然に生えてきた枝を切り捨てにしたのなら、おそらくあなたをも切り捨てにしてしまうでしょう」とすることができるでしょう。
 「恐らく」は「おそらく」のほうがよいと思います。



コリント第一 11:9

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです。



 前半と後半とで文体を合わせようとしたのだと思いますが、かえって不自然です。ここは「女が男のために造られたからです」でよいでしょう。文法論を杓子定規に実践するからこういうことが起こってしまうのでしょう。



コリント第一 12:12

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様です。



 ここは、幾つかの翻訳がしているように「すべての」を省いてしまうなどの工夫をしないと訳文が不自然になります。字義訳ということにこだわりすぎるからこういうことが起こってしまうのでしょう。聖書協会共同訳はそれほど字義訳ということにこだわった聖書でもないのに、バランスが悪いと思います。
 「であるように……も同様です」の言い回しにも不自然さがあります。「体は一つでも多くの部分から成り、部分が多くても体は一つであるということは、キリストにおいても同様です。」とするとよいでしょう。



コリント第一 14:4

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
異言を語る者は自分を造り上げますが、預言する者は教会を造り上げます。



 聖書には、「集う人々」を意味し、後の時代に「教会」を意味するようになった語があります。現代の聖書の大半はこの語に「教会」という訳語を充てているため、多くの聖句で文意が変わってしまうという問題があります。
 最初の「造り上げる」は、おおかた「励ます」の意味です。文脈でパウロが指摘するとおり、異言を語る人は自分の語る言葉の意味を理解できません。つまり、自分に聖霊の奇跡が起こっていることを自覚することしかできませんので、その人の中で何かが成長するということにはなりません。一方、後半部分の「造り上げる」は「教えられて成長する」の意味です。そこでパウロは、異言よりも預言のほうがよいと結論するわけです。
 仮にもパウロは、教会が建てられることや、設立されることについて述べているのではありません。「異言を語る者はその人だけを強くしますが、預言を行う者は教会の全員を強くします。」などとするなら、原文の文意を正しく示すことができます。また、コリント第一 14:2の「誰も聞いていないのに」は「誰も聞き取れないのに」か「誰も理解できないのに」としたほうがよいでしょう。



コリント第二 1:10

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
神は、これほど大きな死の危険から私たちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるに違いないと、私たちは神に望みを置いています。



 「救ってくださったし」はかなり雑な言い方です。コリント第二 5:13にもあります。ここは上のほうで述べた敬語のルールもありますから、「私たちを救っただけでなく、これからも救ってくださるでしょう」とすればよいと思います。



コリント第二 1:17

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
このような計画を立てたのは、軽はずみだったでしょうか。それとも、私の計画は人間的な考えによるもので、私にとって「然〔しか〕り、然り」が同時に、「否〔いな〕、否」となるのでしょうか。



 ここは、パウロが難解な言い方を選んだということがあるのですが、もし意味を通そうとするなら、「私が「そうだ」と説明した諸般の事柄は、「そうではない」という説明によって逐一取り消されてしまったのでしょうか」、あるいは「私は何かを主張してはすぐに撤回するということを繰り返しているのでしょうか」などとしないといけないでしょう。(説明は省きます。)

 さてここで、聖書の訳文の調整がどの程度まで許されるのかを示す実例を挙げたいと思います。



コリント第二 6:11

◇ 口語訳聖書 ◇ (プロテスタント)
コリントの人々よ。あなたがたに向かってわたしたちの口は開かれており、わたしたちの心は広くなっている。

◇ 新改訳聖書 ◇ (ファンダメンタル)
コリントの人たち。私たちはあなたがたに包み隠すことなく話しました。私たちの心は広く開かれています。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
コリントの人たち、わたしたちはあなたがたに率直に語り、心を広く開きました。

◇ 新改訳聖書 [2017年版] ◇ (ファンダメンタル)
コリントの人たち、私たちはあなたがたに対して率直に話しました。私たちの心は広く開かれています。

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
コリントの人たち、私たちはあなたがたに率直に語り、心を広く開きました。



 ここは口語訳聖書の「わたしたちの口は開かれており」が字義訳です。原典は「口を開き、心を広げ」というふうに二つの表現を組にしていて、いわば“美しく格調高いギリシャ語表現”となっています。これを日本語に訳出する際に多少なり意訳ということをやってしまうと原典のニュアンスが破壊されてしまうという問題があります。しかし新改訳聖書がこれを「私たちは包み隠すことなく話し」と訳すと、もう字義訳は採用されなくなり、現在は横並びに「私たちは率直に語り」が採用されるようになっています。今の時代、聖書の翻訳においてこの程度の調整は許され、広く採用されています。このような訳文を採用しても、その訳本が字義訳の原則を無視したとみなされることはありません。
 もちろん、このようなことをするにあたっては守るべき原則というものがあります。この句の場合、「わたしたちの口は開かれており」としたのでは読者にとって文意が明瞭でないことが根拠となります。私がこの文書で示している聖書協会共同訳の問題点と修正案は、今ここに示したような種々の指針を踏まえて提起されています。パウロがコリントのクリスチャンへの手紙で言明したように、私も、肯定すべきでないことを肯定したり、否定すべきでないことを否定したり、あるいはその両方をやって矛盾をきたしたりということを繰り返しているのではありません。



ガラテア 4:29

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
しかし、当時、肉によって生まれた者が霊によって生まれた者を迫害したように、今も状況は同じです。



 ここは「迫害しましたが」とするとよいでしょう。



ガラテア 4:30

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
しかし、聖書は何と言っているでしょう。「女奴隷とその子を追い出せ。女奴隷の子は、断じて自由な身の女の子と一緒に相続をしてはならない」とあります。



 「自由な身の女の子」のところに多義の問題があります。これは新共同訳聖書の「自由な身の女から生まれた子」にて解決済みの問題だったはずですが、ただの字義訳に戻っています。ガラテア 6:3など、聖書協会共同訳にはこの種の後退が頻繁に見られ、過去の遺産がうまく受け継がれていないという印象があります。



エフェソス 1:1

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロから、エフェソにいるキリスト・イエスを信じる聖なる者たちへ。



 この文には、イエスがエフェソスにいるようにも読めてしまうという問題があります。これも後退の例です。



エフェソス 1:4

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
天地創造の前に、キリストにあって私たちをお選びになりました。私たちが愛の内に御前で聖なる、傷のない者となるためです。



 かなり不自然な位置にカンマがあります。「私たちが御前で、愛のうちに、聖にして傷のない者となるためです。」としたほうがよいでしょう。
 この文には神学的な問題点もあります。「世の基が置かれる前」という表現が「天地創造の前」となっているところです。ここでの論点ではありませんので、これについては指摘のみにとどめたいと思います。



エフェソス 2:2

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
かつては罪の中で、この世の神ならぬ神に従って歩んでいました。空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な子らに今も働く霊に従って歩んでいたのです。



 これは多義の問題であると言えば確かにそうなのですが、聖書の感覚で「この世の神ならぬ神」と言えばそれは父なる神エホバのことになると思います。そうするとこの文はエホバのことをサタン呼ばわりしているようにも読めるわけで、これは不謹慎極まりないと私は思います。
 そもそも、この「この世の神ならぬ神」という訳語はどこから出てきたのでしょうか。原典は「この世のご時世に(ギリシャ語コスモスとアイオーンが組になっている)」です。原本に存在しない語が使われているうえに文意も神に対して冒涜的だとなると、日本聖書協会はこの件を内部調査にかけ、結果を公表しなければならないと私は思います。だって、こんな危ないものを教会が礼拝に使うわけにはいかないでしょう。



エフェソス 3:19

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができ、神の満ち溢れるものすべてに向かって満たされますように。



 「ついに、神の満ち溢れるものすべてに達するほどに満たされますように」とするとよいと思います。



ヘブライ 1:1-2

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
神は、かつて預言者たちを通して、折に触れ、さまざまなしかたで先祖たちに語られたが、この終わりの時には、御子を通して私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者と定め、また、御子を通して世界を造られました。



 「語られたが」は「語られましたが」でしょう。



ヘブライ 2:13

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
また、「私は神に信頼する」と言い、さらにまた、「見よ、私と 神が私に与えてくださった子たちがいます」と言われます。



 「神に信頼する」という言い方は古風ですが今となっては不自然です。普通は、「神を信頼する」とか「神に信頼を寄せる」だと思います。使徒 14:3などに同様の問題があります。
 「見よ」は「見なさい」でしょう。



ヘブライ 2:15

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた人々を解放されるためでした。



 「一生涯」が「奴隷となる」にかかっているのか「解放される」にかかっているのか判然としません。



ヘブライ 2:16

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
確かに、イエスは天使たちを助けるのではなく、アブラハムの子孫を助けられるのです。



 上のほうで紹介した敬語に関するルールに従っているように見えますが、不自然です。これはどちらも「助けられる」にしたほうがよいと思います。「助けられる」を一つ削って、「イエスは天使たちではなくアブラハムの子孫を助けられるのです」にしてもよいでしょう。「助けられる」を「助けておられる」にするともっとよくなると思います。



ヘブライ 3:1

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
だから、天の召しにあずかっている聖なるきょうだいたち、私たちが告白している使徒であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。



 「だから」は雑な言い方です。聖書協会共同訳には「だから」という言い回しが多数ありますが、である調になっているイエスの発言を除けば、「ですから」のほうがよいと思います。「私たちが告白している使徒であり、大祭司であるイエス」は「私たちが告白している、使徒であり大祭司でもあるイエス」としたほうがよいでしょう。



ヘブライ 3:16

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
一体誰が、聞いたのに背いたのか。モーセに率いられてエジプトを出たすべての者ではなかったか。



 「聞く」という表現には「従う」の意味もあるため、このような訳文だと読者が混乱する可能性があります。ここは新共同訳聖書のように「神の声を聞いたのに」とすればよいでしょう。
 ここのところ、ヘブライ 3:16-18まで文体が変更になっています。これは度々みられることで、意図的にやっているようですが、不自然ですし、同じような記述に対する一貫性もないようです。



ヘブライ 4:8

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
もしヨシュアが彼らに安息を与えたのであったら、神が後になって他の日について語られることはなかったでしょう。



 「与えたのなら」、「後に神が」でよいでしょう。



ヘブライ 4:15

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
この大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではなく、罪は犯されなかったが、あらゆる点で同じように試練に遭われたのです。



 主語がイエスだからといって、「罪は犯さなかった」という表現まで敬語にしてしまうのは変ではないでしょうか。ここは「罪を除くあらゆる点において私たちと同じように」くらいでいいように思います。



ヘブライ 10:37

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
「もう少しすれば、来〔きた〕るべき方がお出〔い〕でになる。遅れられることはない。



 「遅れられる」も過剰な敬語だと思います。
 「来〔きた〕る」には、ルビがないと「くる」と読まれてしまう問題があると思います。ここは「来たる」でよいのではないでしょうか。

 指摘はここまでになります。最後に、感想なり提言なりを述べたいと思うのですが、もう控えておくことにします。






 2019年10月、追記になります。

 日本聖書協会は「『聖書 聖書協会共同訳』 訂正箇所一覧」を公表しました。それによると、新約部分の訂正は15箇所あります……が、私がこの文書で指摘した項目は一つもありませんでした。

 私としては、日本聖書協会は怠慢が過ぎるのではないか、と感じました。